無境界
ケン・ウィルバー
吉福伸逸訳、平河出版社、1986
本をあまり読まない人もいるけど、それはそれで本人の勝手というものだが、本を読まないで、この渡世をサバイバルできるということに感心してしまう。
本は人生に溺れた時の浮輪のようなもので、ぼくの場合はこれまで、もう何千という浮輪が必要だった。
その浮輪のなかでもっとも頼りになったのが、何といっても今回、第一番目に挙げた『無境界』だ。
ぼくはカバーをとって読む癖があるのだが、そのむきだしの白い表紙は手あかにまみれ、かなり汚れている。ぼくのは9刷で1993年発行となっているから、おおよそ20年ほど、この本を持ち続け、そのあいだに10回は読んでいるはずだ。これほど、なんども読み返したのは本書だけである。
この本を本棚から引っ張り出すのは、人生に困ったとき。でも、だいたい年中困っているから、とくに困っているときかな。ということは、いま寝床にあるってことは、そういう時期っていうわけだろう。
しかし、何回読んでも新しい発見があって、目覚めさせてくれる。噛めば噛むほど味があるというか、再読するたびに目の前が開けるというか、自由と勇気を与えてくれるのだ。
まあ、それは自己成長のあかしであり、あるいは驚くほどぼくの成長が遅々としているということでもある。
なんといっても副題が「自己成長のセラピー論」だもの。
座右の書といえば、まちがいなくこの本を選択するだろう。ケン・ウィルバーの本はほぼ全部読んでいるが、これがいちばん好きだ。さてさて、ぼくの渡世、これから何回、この本を引っ張り出すことやら……。
すべての人間の苦難、災禍の根源をたどると「境界」にゆきつく。人間は自己の皮膚を境界として「自」と「他」に分け、ありとあらゆるものに名をつけるが、これは境界をつくることを意味する。
境界が戦線となるとケン・ウィルバーが述べているがごとく、ほんらい誰のものでもない地域に境界を設け、そこに国というものをつくり、その国境をめぐって戦争が起こる。
個人の苦しみ、社会の歪みはすべて境界に収斂される。
さも、この世は境界だらけに見えるのだけど、聖者や賢者、覚者が、みな一様に語るところ、この世は「一なるもの」と口をそろえる。
そう、無境界である、と。
森羅万象が無境界であることを知ること。社会が、自分と他人が、そして自分そのものも。そのことを感得することこそが、ただ唯一の「救い」なのである。
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