2014年8月22日金曜日

アメリカでは15億円の邸宅がパンケーキのように売れ、50ドルの葉巻を盗んだとされた黒人少年が射殺される

アメリカ・ミズーリ州で、両手を上げて無抵抗の18歳の黒人少年が警官に撃たれ死亡した。

頭部や腕に6発の銃弾をあびていた。

地元警察の発表によると、少年は雑貨店で50ドル相当の葉巻を盗んだという。

この事件を契機に、ミズーリ州では抗議デモや騒乱がひろがっている。

いっぽう、同じアメリカのニューヨークでは、「15億円程度の物件はパンケーキのように簡単に売れる」と、地元の不動産業者がこともなげに語る。

ここ連日、ニューヨーク・ダウは値上がりし、アメリカの景気回復をマーケットは如実にあらわしているという。
 
だが、アメリカの一般市民に景気回復の実感はない。
 
なぜか。
 
景気が回復したとされる、その「益」のほぼすべてが富裕層の手中に収まるからだ。
 
アメリカの所得上位10%の収入が全国民の全収入の半分に近い。
 
ごくほんの一部の富裕層はますます富み、それ以外のほとんどの国民は「景気回復」の恩恵にあずかれない。
 
そればかりか、貧困層はひごとに激増している。
 
現在、アメリカの貧困層は5千万人(アメリカ国勢調査局)に迫るという。
 
15億円の物件がパンケーキのように売れ、50ドルの葉巻を盗んで殺されるというアメリカ社会。
 
このいびつで異常な格差。
 
だが、これはアメリカだけにかぎったはなしではない。

日本の東京マーケットでも、連日のように株価が値上がりしている。
 
多くの大企業の収益も増えている。
 
だが、ぼくたち一般市民は、そんな株価が示すような経済実感をまるでおぼえない。
 
その「益」はどこに集まっているんだろうか。
 
アベノミクスの第4の矢は、パンケーキを突きさすだろう。
 
(参考資料『朝日新聞』2014年8月21日朝刊)

2014年8月16日土曜日

こんなコメントが寄せられました。 「千葉北西部在住ですが、震災以降、友人知人で橋本病、血液の異常、リウマチ、蕁麻疹の重症化、原因不明の関節痛と慢性疲労…他で入院する人が後を断ちません」

数日前、本ブログの「柏市など東葛地区の乳幼児16人中8人から「末梢血リンパ球異常」。検査医師は子どもの避難を勧告」(201234日)に、つぎのようなコメントが届きました。 http://akiba1.blogspot.jp/2012/03/8.html?showComment=1407760453753



千葉北西部在住ですが、震災以降、友人知人で橋本病、血液の異常(詳しく聞いていませんがおそらくリンパ関係)、リウマチ、蕁麻疹の重症化、原因不明の関節痛と慢性疲労…他で入院する人が後を断ちません。

年賀状30枚程の交友関係の中で明らかな異常を感じています。

確かに、東北からの知人から今のところ体調不良の話は聞きません(個人の耳にする範囲のデータなので=東北が安全ではありません)。

原発事故とほぼ同時に千葉県の市原のコンビナートで火災事故がありそこに劣化ウランが保管されていたとの噂を聞きました。

当時その事を危険視するチェーンメールがまわりTVで否定されていましたが、今になってデマではなかったのでは?と疑っています。

素人の片手間の情報収集では限界があります。

この事をおってくれる有力者、ジャーナリストなどおられないのでしょうか。

他力本願ですが日常生活に追われる人間の本音です。

2014811日月曜日 21:34:00



20113月の震災にともなう、千葉・市原のコンビナート(チッソ石油化学株式会社五井製造所)で火災が発生したが、保管されていた劣化ウランに延焼し大気中に拡散したのではないかという情報がひろまりました。

その後の状況について、はっきりしないままだったのですが、約3年半たって、この事故の影響を危惧する声がこんなかたちでもたらされました。

この問題を追及するジャーナリストはいないか、ということですが……。

それにしても、劣化ウランは、この千葉県の市原だけでなく、日本全国に195か所(文部科学省報告)に保管されていることに驚きます。

なぜ、こんなものがこんなにたくさん、この日本にあるのでしょうか。

なお、ネット検索すると、以下のようなデータがありました。

■週刊朝日92日号(823日発売) スクープ!「新しい放射能危機」放置された劣化ウラン 全国195カ所に15456600リットル分の放射性物質


 

 

2014年8月4日月曜日

都知事の五輪会場変更理由は、東京湾に「大腸菌がいっぱい」だからではなく、「放射能汚染がひどい」からではないか

舛添要一都知事が先月30日、2020年東京五輪・パラリンピックのトライアスロン会場をお台場海浜公園(港区)から変更する可能性を明らかにした。

その理由が「東京湾は大腸菌がいっぱいで汚い」というもの。

この都知事の発言に、はげしい違和感をおぼえた。

だって、東京湾に大腸菌がいっぱいなんて、五輪会場を選定する前からわかっていたことなんだもの。

お台場海浜公園が会場ではまずい、という理由に、あまりにも説得力がない。

で、けさのことだ。

どうしたことか、めざめとともに、トライアスロン会場の変更の理由が、ぼくの脳裏に降りて来たのだ。

それは「放射能汚染がひどくて、とてもトライアスロンなんてできない」というものだった。

そうか! 

これなら、トライアスロン会場を変更したい理由が腑に落ちる。

東京湾の放射能汚染が、海外で問題になることを回避したいための会場変更発言だったのではないか。

広い関東平野に降り積もった放射性物質が、いまも河川をつうじて、どんどん東京湾に流れこんでいる。

1年ほど前だったか、江戸川のアナゴが高濃度に汚染されていたことが発覚してニュースになったことも記憶にある。

さてさて、ぼくの夢のお告げならぬ、めざめのお告げの信憑性はどうだろう。

ねえ、舛添さん。

2014年4月2日水曜日

発熱。2日後、原因不明の歩行不能状態に。6日連続の点滴で……。


先々週土曜に発熱。夕方急に悪寒がして、8度ほどまで体温計が上がる。
 
その2日後の先週月曜のこれも夕方、右脚の膝裏が伸びないなと感じた3時間後に脚が伸ばせなくなり歩けなくなった。あれよあれよの、 歩行不能。右膝がすこし熱があり、腫れている。
 
翌日、総合病院の整形外科へ。
 
血液検査で炎症反応を示すCRPが6以上(ネット検索すると中程度以上の炎症、15で重体とあり)、すぐに抗生物質の点滴を受け、抗炎症剤や痛み止め、胃薬などが処方される。
 
生まれて初めて車椅子と松葉づえを使った。病院常備の車椅子はありがたかったな。
 
病院帰りのタクシーを降りて玄関までは松葉づえ。階段や段差が何段かあって、ちょっとした高さも松葉づえでのぼるのに苦労するし、転ぶのがこわい。
 
看護師さんから「転ぶ人がいるから気をつけてね」と聞かされていたけど、そのことばの重みをひしひしと感じる。いやあ、なってはじめて実感するバリアフリーの必要性だ。
 
でも、この松葉づえ、自宅内でトイレに行くときなどに重宝する。
 
点滴を受けて3時間後ぐらいから、伸ばせなかった脚がいくらか伸びるようになり、松葉づえがなくても歩けるようになった。点滴の効果てきめん。
 
どちらかというと、西洋近代医学には懐疑的だったのだが、この手の疾患、それに救命にはつよい。
 
これ、たとえば漢方だと、どういうようなメソッドがあるんだろうか。ぼくは漢方が好きなんだけど、今回はできたばかりの大きな総合病院を選んだことが正解だった。
 
3日連続で点滴を受けて血液検査でCRPが5.33に。まだ数値が高いということで、さらに3日連続で点滴を続行。そして昨日の検査で1.35に。医師は点滴と薬をやめて様子をみるという方針。
 
この間、ずっと微熱があったが、きょうはずっと6.8度。右脚はまだ完全に伸ばせないが、おおよそ90%は治った気がする。
 
この間、大切な仕事をひとつキャンセルして、数名の方にご迷惑をお掛けしてしまった。でも、辛かったけど、貴重な体験をした。きついけど、病や痛みはある種のメッセージだと思っているのだ。

 
ことしになって、急に仕事にめざめ、仕事に励みだしたのはいいけど、病や症状がつぎつぎとやってくる。なんで、忙しくなったときにかぎって病気になっちゃうのか、ちょっと恨みたくもなるけど、まあ人生、そんなものだとも思う。
 
久しぶりにこのブログを書いた。仕事もたまっている。さあ、いまから某出版社へ行かなくちゃ。
 
 

2014年3月20日木曜日

ミスをしない人間はいない。であれば、事故のない原発は存在しない。

1976年2月18日。

米議会原子力合同委員会にGEの原子力技術者デール・ブラインデンボーら3人が出席したのは、福島第一原発や敦賀原発など、日本の原発の「問題提起」のためである。

問題提起とは、有り体にいえば「内部告発」だ。

言うまでもなく、内部告発はそれなりの勇気を伴う行為である。

この告発者たちは、わが身にふりかかるかもしれない負担や危険性をかえりみず、つぎのような具体的な問題を挙げた。

①福島第一原発1~5号機に使われているマーク1型格納容器の弱点

②配線貫通部の樹脂の弱さ

③機器の多様性の欠如

④共通原因故障の恐れ

⑤政府の規制の不十分さ

⑥平和目的の原発と核兵器生産の技術の密接なつながり

⑦核拡散の恐れ

以上の①から④は技術的な問題である。
 
これらの「問題」は、1976年で解決したのではなく、2011年3月11日までずっと未解決だったのではないか。
 
さらに、すくなくとも、たとえば敦賀原発などでは、引き続きこの「問題」が未解決のままなのではないか。
 
今夏にも鹿児島の川内原発を再稼働させるという動きがあるが、果たして原子力規制委員会は原発の全施設にあるそれぞれの検証ポイントに、専門的知見のある第3者的な立場の技術者を伴って検証作業をしたのであろうか。
 
米議会で告発者が述べたように、日本の原子力業界は「隠蔽体質」なのだから、このような検証作業が欠かせないはずだ。
 
そして仮に、日本の原発が「世界一安全」であろうとも、第2、第3のフクシマが起きないという保証は絶対にできない。
 
「世界一安全」は、あくまで「想定」であり、あるいは人をあざむく「神話」であるかもしれないのだから。
 
仮に本当に「世界一安全」だったとしても、それは他の原発との比較にすぎず、それが絶対に事故を起こさないという保証はない。
 
人間は「絶対に安全」であるという技術は作りだせないからだ。
 
すくなくとも現在まで、そういう技術はなかった。
 
なぜなら、人はミスをかならずするものであるからだ。
 
自動車を例に挙げよう。
 
自動車が売り出されるまで、徹底的な技術検証がなされる。
 
しかし、トヨタであろうとホンダであろうと、あるいは外国産であろうと、リコールされる車は後を絶たない。
 
自動車は数多くのチェックポイントがあるが、それでも原発と比較すると圧倒的にコンパクトなサイズであり、また通常は原発とちがって、放射線の心配の要らない安全な環境で検証できる。
 
また技術的な歴史も原発より長い。
 
それでも、「想定外」の事態が発生して問題が起きる。
 
そして「リコール」という文字を新聞紙面で見ることになる。
 
あるいは自動車ではなく、もっとごく単純な検証作業である本づくりにおいても、しかりである。
 
本の制作の検証作業の多くは文章チェックに費やされる。
 
通常、本に記載されてある文章は、筆者、担当編集者、プロの校正者がチェックする。
 
その文章に問題があるとすれば、校正という検証作業をおこなう自分の目の前、ほんの数十センチの距離に存在する。
 
つまり問題が内在しているかもしれないゲラという対象は、検証者のすぐ目の前にあるのだ。
 
そして、初校、再校と、すくなくとも4度、5度は、その文章の書き手と編集者、プロの校正者など、複数の目が通る。
 
延べで、15回以上は全文を検証するだろうか。
 
だが、それでもミスは起きる。
 
しかも、単純な誤字脱字のまちがいも多い。
 
本を読んでいて、そんなミスを見つけたことがある人も多いことだろう。
 
そうなのだ。
 
人間はミスをする。失敗をするものだ。
 
すぐ目の前に問題があるのに、それでもごく単純なミスをするのだ。
 
それが原子力発電という巨大で、専門分野の異なる技術検証が必要な複雑なプラントなら、その検証作業の専門性や困難性は、本の文章校正の比ではないはずである。
 
であれば、とうぜんミスをする確率も多くなるだろう。
 
で、ミス、失敗したときのことである。
 
本なら、最悪、書店回収というところだろう。
 
まあ、書いた内容に問題があって、たとえば名誉棄損で裁判沙汰ということもないわけではない。
 
でも、最悪この程度である。
 
ところが、原発事故はそうはいかない。
 
たった一度のミスで、この地球を破壊させる可能性さえ秘めているのだから。
 
原発のミスは取り返しがつかないのだ。
 
しかも、全地球史的にである。
 
また、このミスは、あくまで「善意」におけるミスである。
 
ここには「悪意」や「怠慢」、「隠蔽」それに「自己利益優先」などが介在することを考慮していないことも付け加えよう。
 
ところが、史上最悪の事故を起こした東京電力は、「怠慢」と「隠蔽」と「自己利益優先」が介在していたことが明白になっているのだが……。

 ⑤以降は政治的な問題である。
 
⑥は要するに「原発は核兵器製造工場」ということだ。
 
彼ら原発の現場で働いた告発者たちは、「原発と核兵器生産の技術の密接なつながり」を、実際に自分たちの眼で目撃したのである。
 
この日本という資本主義社会にあって、それが最優先とされる経済性においてすら劣る原発を何としても稼働させたい、その本音はここにあるのではないか。
 
この「本音」は、史上最悪の「悪意」だろう。
 
事実、自民党幹事長の石破茂は「核武装のために原発は必要である」とテレビカメラの前などで明言している。
 
 
もっとも、そもそも原発などという愚かなプラントで発電をしようとしたことじたいが、人間にとって取り返しのつかないミスだろう。
 
で、石破的なる人間を生み出したのは、いったい誰のミスなんだろう。
 
(参考資料、引用『朝日新聞』「プロメテウスの罠・内部告発者17」2014年3月20日朝刊)

2014年3月9日日曜日

ドイツのテレビ・ドキュメンタリー「フクシマの嘘」が描いた、原子力ムラに牛耳られるわが美しきニッポン


ドイツZDF 「フクシマの嘘 其の参」

http://youtu.be/m2u-9eR-hC8


30分のテレビ・ドキュメンタリーである。

この短い尺で、原発爆発以後のフクシマの実態、そして原子力ムラに思うがままコントロールされる日本という国家と国民の姿を余すことなく描写している。

そう「コントロール」されているのは汚染水ではなく、ぼくたち日本人のマインドなんだ。

安倍晋三とそのエピゴーネン、原子力ムラの住人、そして東電にとって、汚染水をコントロールするより、日本人をコントロールするほうがたやすいとふんでいるのだ。

ぼくたちは、彼らから徹底的になめられている、というわけだ。

福島の原発事故以降、この最大の惨事、いや人類史上最悪の犯罪にたいして、この国、日本では数多くのドキュメンタリーや報道がなされてきた。

だが残念ながら、このドイツのテレビ映像のような、この犯罪の核心というか真実へ肉薄したものをぼくはまだ見ていない。

原子力ムラというカネのためなら、人が死のうが苦しもうが、いやこの日本、この地球が滅ぼうとも意に介さない者どもに、ぼくたちはこのまま愚弄され、蹂躙されつづけるのだろうか……。

この映像を見ながら、そんな怒りと絶望が、ぼくの胸をいっぱいにした。

怒りを歓びに、絶望を希望にスイッチするにはどうすればいいのか。

それにはまず、怒りを怒りとして、絶望を絶望として、しっかりとわが全身に叩き込むことだろう。

そこからしか、真の歓びや希望は見えては来ないだろう。

ぼくたちはきっと、怒りのまま、絶望のまま、この世を去りたくはないのだから。

2014年2月27日木曜日

大雪が降った翌朝、積もった雪を見て、原発が爆発して降り積もった放射性物質を連想した

原発が爆発して、ここ柏市の住宅街にも放射性物質が空から降ってきた。

でもみんな、いつものように外を歩いていた。

それはふだんとなにも変わらない光景だった。

だけど、これが雪のように降り積もるように見えたら、あんなふうに外を歩いていただろうか。

おそらく、みんな「正しく恐がった」はずだ。

そう、あの当時、大雪のごとく放射能が降り積もっていたんだよ。

……大雪が降って、道路に積った雪を見て、こんな連想をしたことを、けさ思いだした。

あの当時、ヨウ素やセシウムといった放射性物質が、しんしんと雪のごとく降り注いでいたんだよな。

雪はいずれ溶けてなくなるけど、放射性物質はそうはいかない。

身体から排出されず残った放射性物質が、あらゆる器官に蓄積して、悪魔の毒を放射しつづけるのだから。

2014年2月26日水曜日

放射能汚染で、ぼくたちは手賀沼の豊かな漁場をうしなった

千葉県の北西部に手賀沼という大きな「沼」がある。

その周囲は38キロあり、山手線の34.5キロと比較すると、その大きさが想像できるだろう。

ここはかつて風光明媚な景勝地で、この沼を見下ろす我孫子の高台には志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、中勘助、滝井孝作など、白樺派の文人たちが住んでいた。

現在では夏になると柏市と我孫子市が共催する花火大会があり、沼の周囲には大勢の人たちがつどう。

ぼくの好きな我孫子図書館はこの沼のすぐ畔にあり、そこには犬も入れる大きな公園があって、愛犬が元気なときはよく散歩に連れて来た。

また、この沼はコイ、フナ、ウナギ、エビ、そして名物の佃煮となるモツゴなどが獲れる豊かな漁場だった。

しかし、この沼が人の食用として獲れる魚の漁場だったのは、2011年3月半ばまでだ。

これ以降、この沼で獲れた魚を、ぼくたちはいっさい食することができなくなり、この沼で生計を立てていた漁師たちは、漁に出ることができなくなった。

その理由は、もちろん東電福島第一原発事故による放射能汚染のためだ。

手賀沼が「日本一」で有名だったことがある。

それは「日本一汚い沼」という、あまり名誉な一番ではないが。

大規模な浄化が進み、10年以上前に「日本一」は返上した。

日本一汚い沼で獲れた魚でも食用にすることはできたのだけど、一度の原発事故で、もうこの沼で獲れた魚をぼくたちは食べることができない。

放射能汚染というものが、いかにとてつもなく激しい「汚染」なのかが実感できる。

この沼に漁に出られ、獲れた魚を食べることができるのは、いったいいつの日なんだろう。

数十年先か数百年先、それとも……。

ああ、ぼくたちの世代は、なんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。

先祖にも、そして未来に生きる人たちにも……。

きのう25日、安倍政権は原発の再稼働を進めるエネルギー基本計画の政府案を決定した。

(参考資料『朝日新聞』ちば東葛面2014年2月26日朝刊)

 

2014年2月24日月曜日

けさ、寝床でうつらうつらしているとき、ふと気づいた。ブッダは苦と向き合ったから悟ったのだ、ということを。

うつらうつら夢と目覚めのまどろみのなか、なぜか、この世の「苦」ということに思いが及んでいた。

そしてはたと、「そうか、ブッダは苦しみと真っ向から向きあい、取り組んだから大悟することができたんだ」と気づいたのだ。

仏教はこの世を苦の世界と説く。

ちなみに「四苦八苦」は仏教タームで、人のあらゆる苦しみをあらわしたことばである。

ただ、ここでの「苦」は、「人間として逃れられない必然的な苦しみ」とか「思うようにならないこと」という意味だとされる。

ぼくは以前、この「苦の教え」に疑問というか反発をもっていた。

だって、この世って、苦しみばかりじゃないもん、楽しいことだっていっぱいある、と。

この世は苦の世界って言われると、夢も希望もない、救いのない気持ちになったからだ。

でも、ここ数年で、この「苦」にたいする疑問と反発が、すこしずつゆるみはじめている。

それは苦しみのなかで、人間は自分を見つめることができる、ということを知ったからだ。

たとえば、病気で痛みや不快な症状に悩まされているとき、自分がいま生きているという現実感を嫌というほどおぼえる。

まさに「病を得る」なのだ。

まあ、あまりありがたくはないリアリティだけど、苦しみは生きているという実感を得させてくれる。

とはいうものの、苦しみはいいものだとか、苦しめ、苦しむがいい、というものでもない。

あまりの苦しみにたいしては、そういう苦というものを存在させたこの世をうらむし、もし神がこの世を創出させたのなら、なぜここまでの苦しみを神は与えなければならないのか、とも思う。

そしてそう思ういっぽう、苦はありがたいものなのだ、とも。

そういえば、こんなことばを思い出した。

正確ではないけど、「苦しみのない人生にはさとりもない」というもの。

これ、たしか吉福伸逸さんが述べてたよね……。

 

2014年2月22日土曜日

「回答の4割が体調変化」子宮頸がんワクチン副作用、6市が独自調査。厚労省は接種の推奨再開をやめ、ただちに接種の中止を!

子宮頸がんワクチンを接種した人にたいして、神奈川県茅ケ崎市・鎌倉市・大和市、愛知県碧南市、熊本県合志市・玉名市の6市が独自に追跡調査を実施したところ、いずれの市においても4割ほどの人が「副作用あり」と回答した。

このブログでも報告したように、厚労省の検討会は強烈な痛みなど副作用について「科学的知見はない」と否定し、その原因を「心身の反応」とした。

だが、これはあきらかにおかしい。

もし副作用が、検討会が言うところの子宮頸がんワクチンの成分に原因がなく、接種するさいの痛みや恐怖、不安がきっかけとする心理要因なら、それは接種成分を問わない「注射恐怖症」ともいうべきことになる。

だが、これまでの「注射の歴史」のなかで、天文学的な回数が実施されたが、これほどの副作用の報告があっただろうか。

これまでの医療注射にたいして、どれだけの心理的要因による副作用が報告されているか、検討会ならびに厚労省に、その調査データの開示を求めたい。

もし、そんな調査はないとするなら、それこそ「心身の反応」とする「科学的知見」はないということになるだろう。

それにしても、4割もの人が体調の変化を感じたというのは、あきらかにこのワクチンの成分そのものに原因があるとしか考えられない。

なぜ、こんな疑惑のワクチンを厚労省は普及させようとするのか。

この問題、なにかイヤな臭いがぷんぷんする。そう感じるのは、ぼくだけだろうか……。

(参考資料『朝日新聞』2月22日夕刊)

2014年2月20日木曜日

秋場から秋葉へ改名しました。きょうから「秋葉龍一のねごと」です。

筆名を「秋場龍一」から「秋葉龍一」に改めることにしました。
はい、「場」を「葉」に変えただけです。

あまり縁起を担ぐとか、オカルト志向でもないのですが、なんか思い切って自分の在り方を変えたいと思い、ことしから秋葉にしようと決意しました。

秋場は愛着がありますから、それを変えるのは、本人にとっては、けっこうな「決意」なんです。

じつは、もうかれこれ15年ほどまえ、ある九州の占い師から、「秋場」はよくないから「秋葉」にしたほうがいいと薦められていました。

でも、秋葉って、15年前はオタクの聖地秋葉原の「アキバ」であり、最近ではAKBの「アキバ」でもあって、どうも乗り気がしなかったわけです(さっそく口の悪い旧友から「AKB龍一」というメールを頂戴しました)。

それとぼくのなかでは秋場の「場」って、カッコいいんですよ。

いまふと思ったのですが、ペンネームとか芸名とか、本名ではなく自分で好き勝手な名前を付けても社会的にゆるされるって、これモノを書く人間とか、芸人、役者、タレント、芸者、ホステス、ホストなど一部の職業だけではないでしょうか。

会社に入って、自分好みの「社員名」など付けられないですから。

自分で好きな筆名を付けて、その名で呼ばれるって、それなりの快感があります。

親から、本人の承諾もなく、勝手につけられた名でもって、生涯呼びつけられるというのは、理不尽といえば理不尽であります。

ちなみに、むかしの武士などは、幼名があって、諱(いみな)になったり、また何度も名が改まったりしています。

さて、秋場で、この間ずっと通してきたわけですが、なんかずっと「秋葉」にしたほうがいいんじゃないか、という気持ちがありました。

で、昨年の暮れ、このままではまずいという、かなり深刻な事態におちいったとき、ワガツマが「秋葉のほうがいいんじゃない」とのたまったのです。

この深刻な事態を乗り切るのは自分を変えるしかなかったのです。

自分を変えなくちゃと真剣に悩んでいるときですから、まあ「渡りに船」です。

あれほど躊躇していた秋葉という舟にあっさり乗ったというところです。

でですよ、秋葉にしたことし、その深刻な事態を約1か月半で回避できたのです(いや、まだ安心はできませんよ。とりあえずはね)。

ことしに入り、あきらかに運勢が変わりました。それは実感できます。もちろんいい方向です。

ただし、2週間ほど前から強力な耳鳴りに悩まされ、耳鼻科で突発性難聴と診断されたり、先週の金曜からは耳鳴りに片頭痛が加わり、その痛みで夜中に目覚めてしまったり、また頻脈性の不整脈で生まれてはじめて救急搬送されてしまったりと、まあそれなりにいろいろあるわけですが。

きっとこの間の、強烈なストレスでしょうね。

人生「生老病死」、いろいろ苦はめぐってくるものです。

ところで、人間って、「決意」というか「覚悟」っていうのかな、それが本心からできたとき、運勢というか、人生の流れというのはまちがいなく変わりますね。

こんなこと、もっとはやく気づくべきなのでしょうが、でも仕方ないです。

というわけで、「AKB龍一」じゃなくて、「秋葉龍一のねごと」ですから、よろしくお願いします。

2014年2月14日金曜日

「福島第一の護岸、セシウム最高値検出」被害拡大一方の汚染水! ところで、これベタ記事なんだけど……

けさ14日の朝日新聞朝刊の社会面のいちばん下に、「福島第一の護岸セシウム7.6万ベクレル」「地下水で最高値検出」という記事を見つけた。

この書き出しはこうだ。

 
 東京電力は13日、福島第一原発のタービン建屋東側の護岸でくみ上げた地下水から、1リットルあたり7万6千ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。護岸の地下水としては過去最高値となる。(『朝日新聞』2014年2月14日朝刊)

 
これって、もう大変な緊急事態なはずだ。

この検出されたセシウムのほかにも、数種の放射性物質も混じっているだろう。

護岸で検出ということは、海に流出していることはまちがいない。

海洋は波があり、潮の流れがあり、この放射性物質は、やがて太平洋一帯に拡散する。

とうぜん、魚介類やクジラなど海の動物も摂り込む。

事実、すでに、たとえば太平洋沖で漁獲されたマグロから放射性物質が検出されたという情報がある。

このまま、汚染水がとめどなく海洋へ流出すると、ほんとうに日本人だけではなく、世界中の人びとが海で泳いだり、もぐったりすることができなくなり、また海産物を食べることもできなくなるだろう。

これはけっして、過言ではない。根拠のある断固とした事実だ。

そして、こんな超重大な出来事が新聞の片隅(ちなみにロト6当選番号のとなり)、ベタ記事扱いなのである。

このニュース、11年の3.11以前なら、新聞では1面巻頭ぶちぬき見出し、テレビはニュース枠だけでなく、ワイドショーでも大騒ぎしていたことだろう。

そして、世界中のメディアもこれを真っ先に伝えたはずだ。

だって、マジで地球存亡の危機なんだもの。

人は嫌なことは早く忘れたいし、慣れや風化もある。

でも、いくら人の関心がうすくなったとはいえ、この事態をベタで扱っていいわけがない。

ところでこのニュース、朝日以外のマスメディアはどんな扱いなんだろうか……。

2014年1月28日火曜日

吃音を苦に、34歳の看護師が自殺したという。じつはぼくも「どもり」だった。

けさ、「伝えられぬ苦しみ「吃音」 就職4カ月、命絶った34歳」という新聞記事の見出しが眼にとまった。

わが身に引き寄せて、ショックを受けた。

それはこんな内容だ。

言葉が出にくかったり、同じ音を繰り返したりする吃音(きつおん)のある男性(当時34)が昨年、札幌市の自宅で自ら命を絶った。職場で吃音が理解されないことを悩んでいたという。自ら望んだ看護師の職に就いて4カ月足らずだった。100人に1人とされる吃音の人を、どう支えればいいのか。学会が創設され、議論が始まっている。(『朝日新聞』2014年1月28日、朝刊)

ぼくも吃音、そう「どもり」だった。

いまでも、見ず知らずの人に電話をかけるときなど、最初のことばが出にくかったり、つっかえたりするから、完璧には消えていない。

いちばんどもりが頻発して、たとえば「あの」と言おうとして、「あ、あ、あ」というように、つぎのことばが出てこなかったのは、小学校1年生のころだった。

自宅にときどき来るおじいさんがどもりで、それを面白がって真似していると、いつのまにか自分もどもるようになっていた。

吃音を真似ることで、かならずしも吃音になるわけではないと思うが、ぼくの場合はそういうことがあった。

もし、真似ていなければ、ならなかったかというと、それはわからないが、たぶん真似なくても、自分はなっていたように思う。

で、小1のとき、「どもり矯正教室」みたいなところに通った。

学校の担任の先生も親といっしょに付き添ってくれた。

そこでは、とにかく、ことばをゆっくり、はっきりと話す練習を繰り返した、という記憶がある。

それと、「どもる人でも、歌を歌うときはどもりません」という講師のことばも憶えている。

で、なぜどもるのかということを、体験というか、自分のナマの感覚から分析してみると、自分が人に話したい思いと、それをことばにして発するときに、ある種の齟齬が生じることで起きるのではないか。

おそらく、吃音者は人に自分の思いを伝えたい、という気持ちが強すぎるのだ。

相手にわかってほしいという思いが強すぎて、ことばを発するためのレールにうまく乗れないような感じがする。

あるいは、「思いの量」と、それをことばにして伝える「パイプの容量」が適合していないというか。

思いの量が多すぎて、パイプが詰まってしまうのだ。

また、過剰に緊張し、さらに急いで話さなければいけないというあせり、みたいな癖をもっている。

とくに、人が多くいるときや、あまり親しくない人と話すとき、あるいは重要な仕事の用件を伝えるときなど、どもる傾向がたかまる。

そして、一度でもはっきりどもってしまうと、それが後を引いてしまって、どんどんあせり感が増して、ますますどもるという悪循環におちいる。

でも、長年の体験から、こんなときは意識的にゆっくりと話すようにすると、なんとか最初のどもりというか、つっかえをクリアすることができ、その後はふつうに話せるようになる。

数年前、ある女子大学の講演会に講師(演題は「天皇家の食卓」)として招かれたとき、壇上にたって最初のことばを発するとき、このどもりの兆候をおぼえた。

瞬間、「ヤバイ!」とあせった。

眼の前には、女子大生や一般公開で集まった人たちが500人ほどいる。

それに、こんな大きな講演会で話すのは初めての経験だ。

ぼくでなくても、ほとんどの人が緊張するだろう。

あ、どもる、と思った。

そこで、「落ち着け、ゆっくり話せ」と、自分に言い聞かせた。

そして、一呼吸置いた。

すると、どもらなくて、なんとかスムーズに講演のスタートを切ることができた。

一呼吸置くことで、話そうとする思いが、話しを伝えるパイプにスムーズに流れ込むことができたのだ。

もし、この出足でどもって、つまづいていたら、そのあとはぼろぼろになって、まったく話せなかったかもしれない。

講演の出足で、みんなの眼がぼくに一斉にあつまり、そこで言葉が出ないと、みんなは「あれ?」と思うだろう。

そう思われたと思うことで、緊張の上にさらに緊張が重なり、どんどんあせって深みにはまることになる。

そうなると、もうだめだ。

どもりの連鎖となり、どもりがどもりを呼ぶ。

ぼくは、おさないときに、どもりを矯正する教室で訓練を受け、ゆっくりと話す練習をし、それなりに改善し、また歳を重ねるうちに、意識してどもらないようにできるようになった(いまも、まったく消えたわけではないが)。

前述したように、人に伝えたいという思いが強い、過剰に緊張する、あせりやすいという性格が、どもりを呼び込んでいるような気がする。

この新聞記事によると、吃音の人は100人に1人というから、この日本には100万以上もいるということになる。

ぼくは軽症の吃音かもしれず、それほどどもることで悩んだことはなかった。

ぼくがどもることで、ぼくをひとはどんなふうに思ったか知らないけど、どもることを眼の前で揶揄されたり、差別されたりしたことはなかった。

自分もまったく、どもることを恥じてはいなかった。

で、きょう、「吃音で自殺」ということにショックを受けたのだ。

どうか、どもることで、死なないでほしい。

いくら重い吃音でも、たとえ人から差別を受けても、職場でコミュニケーションがうまくいかなくても、どうか死なないでもらいたい。

どもることは個性だよ。

単に、程度の差はあるが、ことばをスムーズに発することができない、という発声に、ある種の特徴をもっている、というだけだ。

また、吃音者を周囲の人は差別しないでもらいたい。

どもるのは、話し相手のあなたに、自分の思いを伝えたいという気持ちが強いからだ、と考えてほしい。

それは、あなたをリスペクトしているからこそ、なのだ。

 

 

 

2014年1月21日火曜日

基準を超える汚水の排出容疑で養豚場社長を愛知県警が逮捕。で、なぜ汚染水を排出した東電社長は逮捕されないのか?

きょう21日、愛知県警は基準値を超える汚水を養豚場から赤羽根漁港(愛知県田原市)に排出した容疑で、「増田ファーム」(愛知県豊橋市)の増田康夫社長を(60)を水質汚濁防止法違反の疑いで逮捕した。

このニュースを見て、あれって思った人も多いことだろう。

だったらなんで、東電社長は逮捕されないの、っていう。

ごく単純で、ごく常識的な疑問だよね。

あきらかにヘンだ。

養豚場の排水で社長逮捕なら、福島原発からの汚染水排出で、東電の社長はもう少なくとも100回以上は逮捕されなくてはならない。

しかも、東電は原発事故直後から、汚染水が環境問題になることを認識していた。

これは福島県警の管轄だよね。

これ、職務怠慢じゃないのか。

こういう警察というか公務員の対応を取り締まる法律はないのだろうか

子宮頸がんワクチン接種後の痛みは「心身の反応」ってどういうことなのか?

子宮頸がんワクチンを接種した後、痛みを訴える人が相次いだことについて、厚生労働省は20日に検討会を開いた。

そこで、ワクチン成分が直接の原因ではないと否定したうえ、「心身の反応以外はこの痛みを説明できない」と判断した。

そう、痛みはワクチンの副反応(副作用)ではない、というのだ。

この「心身反応」とは、「針を刺す痛みやワクチン成分による腫れなどをきっかけに、恐怖、不安などが体の不調として現れ、慢性化した」ことによるものだという。

医学的評価は今回で終わり、次回の検討会で安全性を確認して是非を判断するらしい。

この流れで「接種推奨」が再開されてしまうのだろうか。

でも、ちょっとまってほしい。

針を刺す痛みや腫れたことによる恐怖や不安で、患者が訴えるほどの激痛が長期化するものか。

もし、針を刺す痛みで激痛が慢性化するなら、1853年の注射器誕生以来、160年以上の歴史のなかで、「注射器の脅威」は周知の事実になっていたのではなかろうか。

医学の世界では、「注射針を刺した痛みによる心身反応での慢性激痛」は、よくある症例なのか。

ワクチン接種後の痛みの医学的根拠を突き止められず、あれでもこれでもないなら「心身反応しかないだろ」って、消去法でこじつけたのではないか。

痛みを医者に訴えて検査してみたところ、その原因が見つからず、「自律神経失調症でしょう」って診断を下された、あの感じを思いだす。

ほんとうに、「心身反応」なんていう薄弱な根拠で、あの「疑惑のワクチン」をまた大々的にすすめるのだろうか……。

(引用参考資料『朝日新聞』2014年1月21日、朝刊)

2014年1月12日日曜日

疑惑渦中の「子宮頸がんワクチン」を高校生にすすめる専門医


けさ、新聞を読んでいて、わが眼を疑いました。
 
きっと、あなたも疑うでしょう。
 
それはこんな一節です。
 
「がんは予防できることを知っていますか。まずは、たばこを吸わないこと。子宮頸がんなどワクチンで防げるがんもあります。そして、大事なのが検診を受けること」
 
どうでしょう。
 
このことばは、あきらかに子宮頸がんワクチンは効果があること、その脈絡からその接種をすすめていますよね。
 
こんな発言をしたのは、向原徹・神戸大特命准教授。専門は腫瘍内科学と記されているので、がんの専門家なのでしょう。
 
しかしそれにしても、現在、子宮頸がんワクチンの副作用(専門的には副反応)で苦しんでいる多数の少女がいるのに、そんなことをひとことも述べずワクチンを推奨しているのに驚きます。
 
厚生労働省が報告した、子宮頸がんワクチンの副作用は1196件あり、その内106件は重篤なもので、「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会」も結成されました。
 
ではこのワクチンを接種した予防効果はどうかというと、これがきわめて怪しいのです。
 
このがんの原因とされるウイルスは15のタイプがあり、このワクチンはその内の2タイプにしか効き目がなく、接種した人の50~70%にしか効果がありません。
 
さらに日本人に多いウイルスのタイプには10%程度の効果だとされています。
 
しかも、子宮頸がんウイルス説を否定するものや、ワクチン接種が逆に子宮頸がんの発生リスクをたかめるという報告もあるのです。
 
ちなみに、厚労省のリーフレット(2013年6月)では「子宮頸がんの約半分は、ワクチン接種によって予防できることが期待されています」と表現します。
 
いかにも、お役所らしい、自己に責任が及ぶことを避けた表現ですが、「半分の期待」なのです。
 
あくまで「期待」で、「予防できる」と断定していません。
 
また同じリーフで「現在、子宮頸がん予防ワクチンの接種を積極的にはお勧めしていません」と、かなり微妙な表現を使っています。
 
そして、こんな子宮頸がんワクチンをめぐる社会的状況下で、それをすすめることを高校生に向けて発したのです(奈良県立大淀高校「看護・医療コース」特別授業)。
 
この授業は日本対がん協会と朝日新聞社が主催する「ドクタービジット」というもので、そう、あの中川恵一(東京大医学部准教授)もたびたび講師をする、いわくつきのものです。
 
子宮頸がんワクチンの副作用の被害が大きな社会問題となっていることを、腫瘍内科学の医者が知らないわけがないでしょう。
 
それにしても、なぜこんなとき、こんな「疑惑のワクチン」をすすめるような発言をあえてするのでしょうか……。
 
(引用参考資料『朝日新聞』2014年1月12日朝刊「ドクタービジット がんを知る」)
 

 

 

2014年1月11日土曜日

斑目春樹「爆発はない、と首相に答えた私の説明に誤りはない」と日経のインタビューで発言

日本経済新聞が東電福島第一原発事故当時、原子力安全委員長だった斑目春樹をインタビューした。

このインタビューでの斑目の発言には、事故にたいする責任というか、当事者意識すら感じられなかった。

なにか、どこかの原子力の専門家が、事故の技術的問題と官邸の対応を客観的に論評している、といった印象を受けた。

以前、事故直後の斑目の発言を聴いて、この人の自我の未熟さ、要するに子どもっぽさを指摘したことがある。

だが、このインタビューの発言を読むにつれ、それを通り越して、一種のサイコパスではないかと疑った。

自己の行為に責任がとれない、あるいは人の痛みに思いを寄せられない精神的無痛症ではないかと。

そうでなかったら、稀代の悪党としか考えられない。

でなかったら、全国紙にのこのこ出てきて、「私は罪をおぼえるどころか、何もわるいことなどしておりません」という印象をあたえる発言、しかも微笑すらたたえて写真におさまるなんて、できるわけがない。

この記事の冒頭、「原発事故時には政府に技術的助言を与える立場にあったが、的確な助言ができなかったとして非難を浴びた」と斑目を指摘しているが、それだけではなく、そもそもあの事故を引き起こした責任者ではないのか。

原子力安全委員長というのは、まさに原発の「安全」を保守するというのが職責ではないのか。

そもそも原発をふくめ原子力関係施設は、事故があってはならないものだった。

事実3・11以前は、日本では原発の過酷事故は起こらない。たとえ事故が起きても四重五重の防護があって、放射性物質を環境に撒き散らすことなど絶対にないとされていたはずだ。

そして、あってはならない超過酷事故が起き、十数万人が住居を捨て避難を余儀なくされ、東北や関東など、おおよそ四千万人以上が被曝し、ほんらいなら強制避難区域に充当する地域に住み、多くの食べものが汚染され、そして汚染水はこのいまもじゃぶじゃぶと海へ垂れ流されている。

そんな、比喩ではなく、現実として起こった、いや現在も進行中の史上最悪の事故(いや、これは刑事事件だろう)にたいして、この人はなんの痛みももたないように見える。

インタビューのなかで、こんなやりとりがある。


【引用開始】

 ――それほど悲観的に事態をみていたのなら、早朝にヘリコプターで現場に向かう菅直人首相(当時)に同行し、機内で「水素爆発はない」と話したのはなぜか。

「(斑目)首相から炉心が露出したらどうなるか問われた。水素ができると答えると、爆発が起きるのかと問い返された。そこで格納容器の中は窒素で置換されていて(酸素はないので)爆発は起きませんと答えた。この説明は誤りではない。菅元首相は著書で、私の言葉を聞いて安心したのが『大間違いだった』と書いているが、私の説明に誤りはない。そこで(首相が)安心したことが間違いだった」
【引用終了】

この斑目の発言には、あっけにとられる。
国を代表するであろう原子力の専門家に「爆発はないのか」とたずね、「ない」と聴けば、誰だって安心するだろう。
別に菅の肩をもつわけではないが、通常の意思疎通においては、そういうものではないのか。
ところが、斑目ときたら、間違いは自分ではなく、菅元首相だと言うのだ。
また、こんな発言もある。
 
【引用開始】
――事故は防げたと思うか。
「防げた。津波が襲来してからではどうしようもないが、設計時の想定を超える状態(設計拡張状態=Design Extension Conditions)で、安全機器が働くかをちゃんと確認し改善していれば、できた。非常用発電機の設置場所とか、1号機の非常用復水器の弁が緊急時に閉まる設計であったとか、災害前に見直していればよかった。それができなかったのは、設計時の想定を超える事故を考えるとなると、設計基準事故(Design Basis Accident)をもとに出した設置許可の取り消しにつながる議論が起きかねない。そこを心配してきたのだろう」

「防げた」というからには、事故時の対策が不十分であることを事前に想定していたわけだ。
「そこを心配してきたのだろう」って、誰が心配したのか? 
おそらく東電、経産省、原子力ムラあたりのことだろうが、そこに気を配るよりも、自己の原子力安全委員長という職責に真に忠実であれば、「防げた」という断言しているわけだから、それを実行していれば、防げた可能性があるのだ。
また、首都圏住民の避難も検討された「最悪のシナリオ」とよばれる「高圧溶融物放出」を斑目も想定していたという。
テレビで官房長官が「ただちに危険ではない」と発言したその裏では、最悪のシナリオが官邸で議論されており、そのことを当時の原子力安全委員長も認めたのである。
ところで、斑目の肩書が「東京大学名誉教授」とあることにちょっと驚いた。
ほう、「名誉教授」かい。
東大は司直が真っ当な仕事をすれば、とっくにお縄になっていたであろう御仁に「名誉」を冠するのである。
もしかして「不」を脱字しているのかな。
そう「不名誉教授」と……。
(引用参考資料『日本経済新聞』2014年1月10日「斑目氏、3年目の証言「あり得た、フクシマ最悪の筋書き」編集委員 滝順一」