安倍首相は7日の参院予算委員会において、東京・新大久保や大阪・鶴橋で、「朝鮮人を殺せ」などの差別排外的なヘイトスピーチを連呼しながらデモすることについて、次のように語った。
「日本人は和を重んじ、排他的な国民ではなかったはずだ。どんなときも礼儀正しく、寛容で謙虚でなければならないと考えるのが日本人だ」
首相が述べるように、すべての日本人がこうであればいいのだけど、その実態はかなり怪しい。
現に、現職の都知事が五輪招致に関連したインタビューでの発言で国際的な非難の的となったし、前都知事で現職の国会議員は、排他的言辞を公然と連発している。
ところで、首相が「日本人が和を重んじ」と述べたが、この「和」について言っておきたいことがある。
たしかに和は、日本および日本人を象徴した語である。また和は、時の権力者に重宝された都合のいいキャッチコピーでもある。和は政治的タームなのだ。
これまで「和」は、この列島の時代的転換点で幾度か登場した。まず、聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」の第一条に「和をもって貴しとす」とある。憲法の冒頭が「和」ではじまった国である。
また、「大和魂」は、日本民族固有の精神として、明治の帝国主義的ナショナリズムのスローガンとなった。勇敢で潔い大和魂を日本人はもっているということで、戦争で死ぬことを美談とした。
そう、「和」の精神が、日本人を外国侵略へと駆り立て、数百万の日本人を殺したのである。
ところがほんらいの「大和魂」とは、源氏物語に見られるように、女性的な優しい情緒をもった感性を表したものだ。これはぼくだけがそう言っているのではなく、辞書や事典にもそう書いてある。
拙著『天皇家の食卓』は、「不思議の国の和の食」について述べたものだが、まあ、日本食を和食とよぶことについて一考したものだ。
和は米から生まれた。縄文後期、この列島に水田稲作技術が中国から渡来し、その水田灌漑のための開発によって誕生した、稲作を主とする共同体「ムラ」から発露した心情が「和」である。
段差や凹凸の激しい土地を水平面にして水田に開発するための難工事にも、さらに田に水を引く水利管理を公平におこなうためにも、一致協力した共同体でなければならなかった。
この水稲開発から維持の過程で、共同体に醸成されたのが「和」である。和は人びとが共同で事をおこなうには最適のチームスピリットとなる。
しかし、和は肯定面だけではない。日本のコミュニティや組織を支配する「空気を読む」同調圧力は、ムラ社会のこの心情が根っこにある。
ムラのウチにこそ和があり、ソトには存在しない。しっくりしない感じを「違和感」、「鬼は外、福は内」とよぶ国である。そう、日本人は和を重んじることで、排他的にもなる。
問題は「和」の境界である。日本という国か、世界か。日本人か、地球人か。アダムとイブが楽園を追われた人類普遍のテーマを、ぼくたちも問われている。
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