2010年10月30日土曜日

ユングの臨死体験と輪廻

本日の金言……2
『ユング自伝2
.ヤッフェ編、河合隼雄、藤縄昭、出井淑子(共訳)みすず書房、1973

私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくつかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事からなり立っていることを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である。」(p126

 この一節はユングが70歳を前にして「危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまった」ときに見た「幻像(ヴィジョン)」のなかの一部である。
 この本は表題のとおりユングの自伝である。ぼくがいままで読んだ本のなかでベスト5に入る珠玉の一冊だ。とりわけこの「幻像(ヴィジョン)」の章は、ユングほどの真龍でないと述べることが到底できない深みがある。 
この章はつまり「臨死体験」を綴ったものだ。もし、実存的にしろ、想像的にしろ、いま「死」というものに苛まれているのなら、ぜひお薦めしたいものだ。まあ、意識しようと無意識であろうと、「死」は常に人間に取り付いているものだから、万人にお薦めすることになろうかと。
ユングは幻像体験を経て生還する。そして「人生と全世界とは、私には一つの牢獄のように思え、私がふたたびその秩序に組みこまれるということは、無性に腹立たしいことであった」と述べるのだ。
九死に一生を得たことに、ユングはこのような思いをもつのである。常識的に考えると、命が助かったのだからラッキーであり、幸せであるはずのことなのに、ユングはこう述懐するのだ。
ぼくはこの一文をきょうまた改めて読んで、ヒンドゥー教や仏教などの輪廻転生についての「気づき」みたいなものを味わった。それが「正しい気づき」かどうか、ぼくなどにわかるわけがないのだが、いままで輪廻転生について、そういうような生死の循環が仮にあるとして、ではなぜそれがよからぬことなのか理解できなかったのだが、(これで完全に腑に落ちたわけではないのだけど)「輪廻転生」の「肝の端」に触れたような気がしたのだ。
ユングは生還したことを「非常に落胆」して、「私がもう一度生きようと本当に決心するまでには、実際にはなお三週間あまりかかった」のである。しかし、この1944年の生還した後、代表的な多くの著作を遺すことになる
そしてぼくはふっと空想して、「この生還後に代表的な書物を著すことでユングは輪廻から脱して涅槃に至ったのかもしれない」とねごとをほざいてしまう。
さらにぼくはきょう改めてこれを読んで、もうひとつ「気づき」を得た。それは「私は存在したもの、成就したものの束である。」についてのことだが、これって、仏教の「真如」のことではないかと。ユングは真如を語っていると。まあまあ、これもぼくの他愛無いねごとということで。

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