東京電力福島第一原子力発電所の爆発は、津波で遭難し救助を求める人の命も奪った。
去年3月11日、原発近くの住民も津波に見舞われ、独自で脱出できない人が多くいた。地元の消防団による捜索救助が始まった。団員は瓦礫にうずもれたなかから人の気配を察知した。
助けを求める人がいる! だがそのとき、原発事故による避難命令。捜索が打ち切られた。
その後、付近からは多数の遺体が見つかった。このなかには救えた命もあった。フクイチの事故によって、救われたはずの命がむざむざと見棄てられた。原発さえなければ、助かっていた命である。そう、原発によって見殺しにされたのだ。
このことはテレビが以前伝えており、ぼくは気になっていた。そしてこの事実を朝日新聞「プロメテウスの罠」がここ数日にわたって詳細に報告している。
湖のようになった沿岸地区を、朝日がまばゆく照らしていた。
あそこだ。あそこに声をきいた人がいるはずだ。
人の姿が見えないか、目をこらす。車で行けばわずか5分の地点。直線距離で2キロ。太陽の光が水に反射して識別できなかった。まるで水を張った田んぼのようだ。
「人が、いるんだろうな」
思わず口にした。
今助けにいかないと。見殺しだ、という思いがよぎった。
でも原発がいつ爆発するかわからない。自分たちだって、住民の避難が終わらないと避難できない。
これで自分たちも終わりなんだろうな、と思った。(朝日新聞5月22日朝刊「プロメテウスの罠・遅れた警報」)
浪江町の原発10キロ圏内に福島県警の捜索隊が入ったのは、津波から1カ月がたった4月14日だった。
高野が助けを求める音を聞いた一帯から、遺体が多く見つかった。
「あのとき、『助けに行こう』ともっと強くいえばよかった。朝まで捜索していれば、1人でも2人でも助けられたんだ」(同23日)
救助を待っていたのは、瓦礫のなかではなく、自宅に居た人もいる。その遺体はこんなようすだった。
ベニヤ板のような薄い木の棺。開けると、グレーの遺体収容袋があった。
チャックを下ろした。黒く、やつれ、変わり果てた父の姿があった。口元が乾いて、半開きで、水を飲みたそうだった。目を見開いていた。苦しそうな表情。何かをつかもうとしていたかのように、右手は少し浮いていた。
父は2階の布団の中で死んでいたと聞かされた。津波は2階まで上がっていなかった。
検案書には「衰弱死」とあった。死亡推定日は3月21日。10日間は生きていたということだ。 (同24日)
自宅二階に逃れ津波に流されなかった人もいた。かろうじて一命を取り留めたのだ。だが、救助はこなかった。原発事故で助けにいこうにもゆけなかった。
10日間、水を求めながら亡くなった人の気持ちを想うと……。
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