ぼくはこの日、東京の道路を歩きます。
あすで3.11大惨禍から3か月だ。
福島第一原発の爆発で環境に撒き散らされた放射能汚染が拡散している。すでに、高濃度に汚染された地域は、こんご数百年、人は安全に住むことはできないだろう。
また、その汚染は食糧にもおよび、福島原発から300キロ離れた茶畑も高濃度のセシウムが測定された。米、野菜、水をはぐくむ大地が毒にまみれている。海洋汚染も深刻だ。汚染は拡散し、日本列島の周辺海域、とりわけ太平洋沿岸の魚介類を、ぼくたちは口にすることができなくなる日がくるかもしれない。
ぼくたち、そしてなにより子供たちの健康と生命が脅かされている。さらに未来の人類の生存権をぼくたちは奪おうとしている。ぼくたちの世代はなんて罪つくりで愚かなんだろう。ぼくたちの世代、ぼくたちの住む国が、福島、東日本、日本、いや地球全域を危機に陥れている。
ぼくたちの祖先とされる現生人類が誕生したのがおおよそ20万年前だという。そして現在まで、延々と人類は世代を引き継いできたのだが、ここにきて今後も世代を引き継いで人類が生き残れるのか、にわかにあやしくなってきた。
これは映画や小説などフィクションではない。実存的な現実なのだ。ぼくはこの現実に、畏怖をいだく。こんな世界を作り出し、そこにこれまでのうのうと生き、そしてこうなることがわかっていたのに、むざむざこんな惨状をまねいてしまったことに。
ただ、まだ日本を地球を、絶滅から回避できる猶予が、ほんのわずかだが残されているかもしれない。そこにかけて、これよりひどい状況にならないようにしたい。このまま原発が残され、あるいは推進されると、もうまちがいなく人類は地球に住めなくなるだろう。
ドイツ政府は原発の廃絶を決めたものの、原発をめぐる世界的な情勢は予断をゆるさない。そして、福島原発の惨状をみても、まだこの期に及んでも、この日本に、原発を稼働させようという勢力や世論さえ、少なからず存在する。
いまが原発廃絶か否かの踊り場だ。それは人類の生存をかけた踊り場でもある。脱原発は、人類の生存権は、ではどうすれば実現するのか。
簡単だ。街に出て、脱原発デモに参加すればいい。
原発に反対の人は多くいる。だけど、その「思い」だけでは、原発は存続する。その「思い」を「行動」や「かたち」にしたとき、原発から脱する契機が生まれる。しかも、その行動やかたちは、ぜんぜん難しいものではない。そう、ただ街に出て、道路を歩くだけだ。
その数が1万人、10万人、そして100万人を超えると、政府は原発を存続させることが極めて難しくなる。集会をやっている公園にいって、道路を小一時間ほど歩くだけだ。そう、お散歩、ウォーキング。元気者は歩きながら踊ったっていい。簡単なことだろう。
デモなんていっても、まったく怖れる必要はない。ただ道路を歩けばいいのだ。気が向けば、原発反対のプラカードを掲げてもいいし、原発反対とさけんでもいい。それが嫌なら、ただ道路を歩けばいい。日ごろ、クルマが走っている道路を歩くというのは、歩道を歩くのとは景色がちがって、なかなか気分のいいものだ。
きょう、あす、あさってにかけて、全国で何百もの脱原発の集会・デモ・講座などが開かれる。11日には「6.11 脱原発100万人アクション」が企画され、現在全国で148件ものアクションが登録されている。
ぼくも参加する。じつは5月7日にも、東京であった脱原発の集会とデモに参加した。デモなんて何年ぶりだろう。東京タワー近くの公園から、新橋の東京電力本店の前を通って、日比谷公園で解散となった。ぼくは1時間ほど歩いて、のどがかわき、お腹がすいたので、園内にあるレストラン、そう松本楼でビールを飲み、カレーを食べて帰ってきた。
さて、あすはどのデモにくっついていくか。東京のデモだけでもいくつもあるので、ちょっと迷ってしまう。
あしたはあいにくの雨予想だけど、ビニール合羽着て、東京散歩に出かけてきます。いかがですか、あなたも。
http://nonukes.jp/wordpress/
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