2010年10月16日土曜日

村上春樹について

500ページ以上の『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009』を3、4日で読み終えた。自分が物書きとして覚醒させられる言葉がグサグサぼくの胸に突き刺さった。


かなり村上は正直にその作家としての信条を吐露している。その作家としてのスタンスは、腰が座っているというか、覚悟があるというか。たとえば、こんな言葉だ。


「せっかくプロとしてものを書ける状況にあるんだから、あらゆる力を振り絞って書かないと、それは人生の冒涜だろうと僕は思う」


この言葉を読んで、ぼくは自分の人生を冒涜しているかもしれないと振り返った。


このインタビューを読んではじめて知ったのだが、村上本人が述べるところによると、以前は文壇や評論家など出版業界関係者から嫌われていたようだ。そんなことは知らなかったけれど、『1Q84』を読むまでは、ぼくは読者としていい印象をもっていなかった。これまでぼくが読んだ村上作品は、『風の歌を聴け』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェーの森』『約束された場所で』ぐらいだが、小説では、ドライで味けない翻訳ものを読んでいるようで、物語として耽溺できず、まったくおもしろくなかった。その文体と物語の空気感が、ぼくの肌に合わなかったのだ。


それに『ノルウェーの 森』だったか、学生運動にたいして想像性がないという趣旨のくだりがあって、そんなことをいまになって(1987年当時)言うんじゃねえと腹が立ち、そのことで村上をかなり嫌悪したものだ。


だけど、ぼくの周囲の友人・知人たち、とくにぼくより5歳以上年下には、かなり好意的に読まれており、ぼくは「村上春樹のどこがおもろいの」とふしぎに思ったものだった。


そして、友人から『1Q84』は読んだほうがいいと促された。でも、発売当初はあまり読む気はなく、しかも大ベストセラーとかになると天の邪鬼としてはさらに敬遠する気持ちがはたらいた。だけど、どういう風の吹きまわしかしらないけど、これを買ってしまったのだ。それが、ことしの7月のことだから、かなり遅い読者ということになるだろう。どうせ退屈で『1』の途中で、ほっぽり投げるだろうな、という気持ちが80パーセント以上あったので、『BOOK1』だけしか買わなかった。


ところが、なのだ。これが読み始めると、意外にもおもしろいではないか。しかも、かなり。もう、冒頭の青豆が首都高から三軒茶屋の地上に降りるときには、この物語に完全に没入してしまい、もう耽溺しながら一気に『2』と『3』を読破してしまった。その表現力の豊かさと物語性の深度に恐れ入って、まじ、これでノーベル賞だよ、唸ったもの。しかも、読み返したいとさえ思った。小説でもう一度読みたいと思ったものなんて、これまであったかな? たしかにそんな作品は記憶にはない。


ようやくここにきて、この『1Q84』で村上がおもしろくなったのか、あるいはぼくがようやく、そのおもしろさを判ったのか。はたして、どちらかなのか試してみようと、これまで読んでいない『海辺のカフカ』を読み始めると、これがまたおもしろいのだ。どうやら、ぼくが村上になんとか追いついたという形勢だけど、このあともう一度、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェーの森』を読んでみて、その判定をくだそうと思っている。


さて、この『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』だけど、ユングの集合的(普遍的)無意識をその執筆の渦中で体験していることがよくわかる。以下は村上の発言である。


イメージをつかって、お答えしましょうか。仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階にはあなたの寝室がある。そこで読書したり、眠ったりします。そして、地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、遊具を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかには隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。しかし運がよければあなたは扉を見つけて、この暗い空間に入っていくことができるでしょう。その内側に何があるかはわからず、部屋のかたちも大きさも分かりません。暗闇に侵入したあなたはときに恐ろしくなるでしょうが、また別のときにはとても心地よく感じるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上的だとか、メタファーだとか、シュールレアリスティックだとか、言われるんでしょうね。でも僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものごとはむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。

どうだろう、この一節は。もう見事にユングだよね。村上のような人を自己実現しているというのだろう。ぼくたち人間は、「夢を見るために目覚めている」ということを知り、そしてそれを表現したり実践していくことこそが、ユングの「個性化の過程」であり、真の自己実現なのだ。

この場合の「自己」というのは、一階、二階、地下階だけではなく、地下階の秘密の扉を開けて入る暗い空間を全部ふくむのである。ちまたで発せられる自己実現とは「暗い空間」はふくまれていない。だからそれは自己ではなく、「自我実現」あるいは「野心実現」程度のものなのだ。

村上は作品を発表するたびに若い読者を、さらに海外の読者を獲得している。これは人間の意識の深層には、すべての人に共通する無意識の層、つまりユングのいう「集合的無意識」があり、その無意識の水脈は年齢や国境、地域を超えて通じ合っているというあかしである。簡単にいえば、村上作品は「深い」ということだ。それは文化や言語の壁を潜って通じ合う霊的な力(あまりこういう類の言葉を使いたくないが)を有しているあかしでもある。

恐れと愚かな欲のエネルギーがグローバリーゼーションとなって世界を席巻しているが、もともとぼくたちは集合的な無意識を通じてグローバルな存在であり、その存在の忘却のはてが世界の現状のありさまかもしれない。

グローバルという言葉は、僕にはあまりぴんとこない。なぜなら我々はとくにグローバルである必要はないからです。我々は既に同質性を持っているし、物語というチャンネルを通せば、それでもうじゅうぶんであるような気がするんです。

と村上が語るように。

ちなみに村上は走ることを日課にし、またマラソンレースにも参加するらしいのだが、彼はウルトラマラソンとよばれる100キロレースを12時間近くかけて走り、その終盤に「宗教的な体験をした」という。そう彼もまた、「スポーツのピークエクスペリエンス」を体験していたのである。ぼくは「スポーツのピークエクスペリエンス」というノンフィクション(講談社のウェブサイトG2で発表)を書いたけれど、村上がこんな経験をしていたことをうれしく思った。

たぶん、ぼくはこれから遅まきながら、すべての村上作品を読むだろうし、病みつきになろうとしている徴候を感じる。ぼくは村上から何周も遅れたランナーだけど、下記の言葉を胸に刻んでこれから走り始めたい。

つまり、小説家とは、覚醒しながら夢を見ることができる人々なのだという言い方もできます。それは特別な存在だあり、特別な能力であると、僕は考えています。

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