2014年1月28日火曜日

吃音を苦に、34歳の看護師が自殺したという。じつはぼくも「どもり」だった。

けさ、「伝えられぬ苦しみ「吃音」 就職4カ月、命絶った34歳」という新聞記事の見出しが眼にとまった。

わが身に引き寄せて、ショックを受けた。

それはこんな内容だ。

言葉が出にくかったり、同じ音を繰り返したりする吃音(きつおん)のある男性(当時34)が昨年、札幌市の自宅で自ら命を絶った。職場で吃音が理解されないことを悩んでいたという。自ら望んだ看護師の職に就いて4カ月足らずだった。100人に1人とされる吃音の人を、どう支えればいいのか。学会が創設され、議論が始まっている。(『朝日新聞』2014年1月28日、朝刊)

ぼくも吃音、そう「どもり」だった。

いまでも、見ず知らずの人に電話をかけるときなど、最初のことばが出にくかったり、つっかえたりするから、完璧には消えていない。

いちばんどもりが頻発して、たとえば「あの」と言おうとして、「あ、あ、あ」というように、つぎのことばが出てこなかったのは、小学校1年生のころだった。

自宅にときどき来るおじいさんがどもりで、それを面白がって真似していると、いつのまにか自分もどもるようになっていた。

吃音を真似ることで、かならずしも吃音になるわけではないと思うが、ぼくの場合はそういうことがあった。

もし、真似ていなければ、ならなかったかというと、それはわからないが、たぶん真似なくても、自分はなっていたように思う。

で、小1のとき、「どもり矯正教室」みたいなところに通った。

学校の担任の先生も親といっしょに付き添ってくれた。

そこでは、とにかく、ことばをゆっくり、はっきりと話す練習を繰り返した、という記憶がある。

それと、「どもる人でも、歌を歌うときはどもりません」という講師のことばも憶えている。

で、なぜどもるのかということを、体験というか、自分のナマの感覚から分析してみると、自分が人に話したい思いと、それをことばにして発するときに、ある種の齟齬が生じることで起きるのではないか。

おそらく、吃音者は人に自分の思いを伝えたい、という気持ちが強すぎるのだ。

相手にわかってほしいという思いが強すぎて、ことばを発するためのレールにうまく乗れないような感じがする。

あるいは、「思いの量」と、それをことばにして伝える「パイプの容量」が適合していないというか。

思いの量が多すぎて、パイプが詰まってしまうのだ。

また、過剰に緊張し、さらに急いで話さなければいけないというあせり、みたいな癖をもっている。

とくに、人が多くいるときや、あまり親しくない人と話すとき、あるいは重要な仕事の用件を伝えるときなど、どもる傾向がたかまる。

そして、一度でもはっきりどもってしまうと、それが後を引いてしまって、どんどんあせり感が増して、ますますどもるという悪循環におちいる。

でも、長年の体験から、こんなときは意識的にゆっくりと話すようにすると、なんとか最初のどもりというか、つっかえをクリアすることができ、その後はふつうに話せるようになる。

数年前、ある女子大学の講演会に講師(演題は「天皇家の食卓」)として招かれたとき、壇上にたって最初のことばを発するとき、このどもりの兆候をおぼえた。

瞬間、「ヤバイ!」とあせった。

眼の前には、女子大生や一般公開で集まった人たちが500人ほどいる。

それに、こんな大きな講演会で話すのは初めての経験だ。

ぼくでなくても、ほとんどの人が緊張するだろう。

あ、どもる、と思った。

そこで、「落ち着け、ゆっくり話せ」と、自分に言い聞かせた。

そして、一呼吸置いた。

すると、どもらなくて、なんとかスムーズに講演のスタートを切ることができた。

一呼吸置くことで、話そうとする思いが、話しを伝えるパイプにスムーズに流れ込むことができたのだ。

もし、この出足でどもって、つまづいていたら、そのあとはぼろぼろになって、まったく話せなかったかもしれない。

講演の出足で、みんなの眼がぼくに一斉にあつまり、そこで言葉が出ないと、みんなは「あれ?」と思うだろう。

そう思われたと思うことで、緊張の上にさらに緊張が重なり、どんどんあせって深みにはまることになる。

そうなると、もうだめだ。

どもりの連鎖となり、どもりがどもりを呼ぶ。

ぼくは、おさないときに、どもりを矯正する教室で訓練を受け、ゆっくりと話す練習をし、それなりに改善し、また歳を重ねるうちに、意識してどもらないようにできるようになった(いまも、まったく消えたわけではないが)。

前述したように、人に伝えたいという思いが強い、過剰に緊張する、あせりやすいという性格が、どもりを呼び込んでいるような気がする。

この新聞記事によると、吃音の人は100人に1人というから、この日本には100万以上もいるということになる。

ぼくは軽症の吃音かもしれず、それほどどもることで悩んだことはなかった。

ぼくがどもることで、ぼくをひとはどんなふうに思ったか知らないけど、どもることを眼の前で揶揄されたり、差別されたりしたことはなかった。

自分もまったく、どもることを恥じてはいなかった。

で、きょう、「吃音で自殺」ということにショックを受けたのだ。

どうか、どもることで、死なないでほしい。

いくら重い吃音でも、たとえ人から差別を受けても、職場でコミュニケーションがうまくいかなくても、どうか死なないでもらいたい。

どもることは個性だよ。

単に、程度の差はあるが、ことばをスムーズに発することができない、という発声に、ある種の特徴をもっている、というだけだ。

また、吃音者を周囲の人は差別しないでもらいたい。

どもるのは、話し相手のあなたに、自分の思いを伝えたいという気持ちが強いからだ、と考えてほしい。

それは、あなたをリスペクトしているからこそ、なのだ。

 

 

 

2014年1月21日火曜日

基準を超える汚水の排出容疑で養豚場社長を愛知県警が逮捕。で、なぜ汚染水を排出した東電社長は逮捕されないのか?

きょう21日、愛知県警は基準値を超える汚水を養豚場から赤羽根漁港(愛知県田原市)に排出した容疑で、「増田ファーム」(愛知県豊橋市)の増田康夫社長を(60)を水質汚濁防止法違反の疑いで逮捕した。

このニュースを見て、あれって思った人も多いことだろう。

だったらなんで、東電社長は逮捕されないの、っていう。

ごく単純で、ごく常識的な疑問だよね。

あきらかにヘンだ。

養豚場の排水で社長逮捕なら、福島原発からの汚染水排出で、東電の社長はもう少なくとも100回以上は逮捕されなくてはならない。

しかも、東電は原発事故直後から、汚染水が環境問題になることを認識していた。

これは福島県警の管轄だよね。

これ、職務怠慢じゃないのか。

こういう警察というか公務員の対応を取り締まる法律はないのだろうか

子宮頸がんワクチン接種後の痛みは「心身の反応」ってどういうことなのか?

子宮頸がんワクチンを接種した後、痛みを訴える人が相次いだことについて、厚生労働省は20日に検討会を開いた。

そこで、ワクチン成分が直接の原因ではないと否定したうえ、「心身の反応以外はこの痛みを説明できない」と判断した。

そう、痛みはワクチンの副反応(副作用)ではない、というのだ。

この「心身反応」とは、「針を刺す痛みやワクチン成分による腫れなどをきっかけに、恐怖、不安などが体の不調として現れ、慢性化した」ことによるものだという。

医学的評価は今回で終わり、次回の検討会で安全性を確認して是非を判断するらしい。

この流れで「接種推奨」が再開されてしまうのだろうか。

でも、ちょっとまってほしい。

針を刺す痛みや腫れたことによる恐怖や不安で、患者が訴えるほどの激痛が長期化するものか。

もし、針を刺す痛みで激痛が慢性化するなら、1853年の注射器誕生以来、160年以上の歴史のなかで、「注射器の脅威」は周知の事実になっていたのではなかろうか。

医学の世界では、「注射針を刺した痛みによる心身反応での慢性激痛」は、よくある症例なのか。

ワクチン接種後の痛みの医学的根拠を突き止められず、あれでもこれでもないなら「心身反応しかないだろ」って、消去法でこじつけたのではないか。

痛みを医者に訴えて検査してみたところ、その原因が見つからず、「自律神経失調症でしょう」って診断を下された、あの感じを思いだす。

ほんとうに、「心身反応」なんていう薄弱な根拠で、あの「疑惑のワクチン」をまた大々的にすすめるのだろうか……。

(引用参考資料『朝日新聞』2014年1月21日、朝刊)

2014年1月12日日曜日

疑惑渦中の「子宮頸がんワクチン」を高校生にすすめる専門医


けさ、新聞を読んでいて、わが眼を疑いました。
 
きっと、あなたも疑うでしょう。
 
それはこんな一節です。
 
「がんは予防できることを知っていますか。まずは、たばこを吸わないこと。子宮頸がんなどワクチンで防げるがんもあります。そして、大事なのが検診を受けること」
 
どうでしょう。
 
このことばは、あきらかに子宮頸がんワクチンは効果があること、その脈絡からその接種をすすめていますよね。
 
こんな発言をしたのは、向原徹・神戸大特命准教授。専門は腫瘍内科学と記されているので、がんの専門家なのでしょう。
 
しかしそれにしても、現在、子宮頸がんワクチンの副作用(専門的には副反応)で苦しんでいる多数の少女がいるのに、そんなことをひとことも述べずワクチンを推奨しているのに驚きます。
 
厚生労働省が報告した、子宮頸がんワクチンの副作用は1196件あり、その内106件は重篤なもので、「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会」も結成されました。
 
ではこのワクチンを接種した予防効果はどうかというと、これがきわめて怪しいのです。
 
このがんの原因とされるウイルスは15のタイプがあり、このワクチンはその内の2タイプにしか効き目がなく、接種した人の50~70%にしか効果がありません。
 
さらに日本人に多いウイルスのタイプには10%程度の効果だとされています。
 
しかも、子宮頸がんウイルス説を否定するものや、ワクチン接種が逆に子宮頸がんの発生リスクをたかめるという報告もあるのです。
 
ちなみに、厚労省のリーフレット(2013年6月)では「子宮頸がんの約半分は、ワクチン接種によって予防できることが期待されています」と表現します。
 
いかにも、お役所らしい、自己に責任が及ぶことを避けた表現ですが、「半分の期待」なのです。
 
あくまで「期待」で、「予防できる」と断定していません。
 
また同じリーフで「現在、子宮頸がん予防ワクチンの接種を積極的にはお勧めしていません」と、かなり微妙な表現を使っています。
 
そして、こんな子宮頸がんワクチンをめぐる社会的状況下で、それをすすめることを高校生に向けて発したのです(奈良県立大淀高校「看護・医療コース」特別授業)。
 
この授業は日本対がん協会と朝日新聞社が主催する「ドクタービジット」というもので、そう、あの中川恵一(東京大医学部准教授)もたびたび講師をする、いわくつきのものです。
 
子宮頸がんワクチンの副作用の被害が大きな社会問題となっていることを、腫瘍内科学の医者が知らないわけがないでしょう。
 
それにしても、なぜこんなとき、こんな「疑惑のワクチン」をすすめるような発言をあえてするのでしょうか……。
 
(引用参考資料『朝日新聞』2014年1月12日朝刊「ドクタービジット がんを知る」)
 

 

 

2014年1月11日土曜日

斑目春樹「爆発はない、と首相に答えた私の説明に誤りはない」と日経のインタビューで発言

日本経済新聞が東電福島第一原発事故当時、原子力安全委員長だった斑目春樹をインタビューした。

このインタビューでの斑目の発言には、事故にたいする責任というか、当事者意識すら感じられなかった。

なにか、どこかの原子力の専門家が、事故の技術的問題と官邸の対応を客観的に論評している、といった印象を受けた。

以前、事故直後の斑目の発言を聴いて、この人の自我の未熟さ、要するに子どもっぽさを指摘したことがある。

だが、このインタビューの発言を読むにつれ、それを通り越して、一種のサイコパスではないかと疑った。

自己の行為に責任がとれない、あるいは人の痛みに思いを寄せられない精神的無痛症ではないかと。

そうでなかったら、稀代の悪党としか考えられない。

でなかったら、全国紙にのこのこ出てきて、「私は罪をおぼえるどころか、何もわるいことなどしておりません」という印象をあたえる発言、しかも微笑すらたたえて写真におさまるなんて、できるわけがない。

この記事の冒頭、「原発事故時には政府に技術的助言を与える立場にあったが、的確な助言ができなかったとして非難を浴びた」と斑目を指摘しているが、それだけではなく、そもそもあの事故を引き起こした責任者ではないのか。

原子力安全委員長というのは、まさに原発の「安全」を保守するというのが職責ではないのか。

そもそも原発をふくめ原子力関係施設は、事故があってはならないものだった。

事実3・11以前は、日本では原発の過酷事故は起こらない。たとえ事故が起きても四重五重の防護があって、放射性物質を環境に撒き散らすことなど絶対にないとされていたはずだ。

そして、あってはならない超過酷事故が起き、十数万人が住居を捨て避難を余儀なくされ、東北や関東など、おおよそ四千万人以上が被曝し、ほんらいなら強制避難区域に充当する地域に住み、多くの食べものが汚染され、そして汚染水はこのいまもじゃぶじゃぶと海へ垂れ流されている。

そんな、比喩ではなく、現実として起こった、いや現在も進行中の史上最悪の事故(いや、これは刑事事件だろう)にたいして、この人はなんの痛みももたないように見える。

インタビューのなかで、こんなやりとりがある。


【引用開始】

 ――それほど悲観的に事態をみていたのなら、早朝にヘリコプターで現場に向かう菅直人首相(当時)に同行し、機内で「水素爆発はない」と話したのはなぜか。

「(斑目)首相から炉心が露出したらどうなるか問われた。水素ができると答えると、爆発が起きるのかと問い返された。そこで格納容器の中は窒素で置換されていて(酸素はないので)爆発は起きませんと答えた。この説明は誤りではない。菅元首相は著書で、私の言葉を聞いて安心したのが『大間違いだった』と書いているが、私の説明に誤りはない。そこで(首相が)安心したことが間違いだった」
【引用終了】

この斑目の発言には、あっけにとられる。
国を代表するであろう原子力の専門家に「爆発はないのか」とたずね、「ない」と聴けば、誰だって安心するだろう。
別に菅の肩をもつわけではないが、通常の意思疎通においては、そういうものではないのか。
ところが、斑目ときたら、間違いは自分ではなく、菅元首相だと言うのだ。
また、こんな発言もある。
 
【引用開始】
――事故は防げたと思うか。
「防げた。津波が襲来してからではどうしようもないが、設計時の想定を超える状態(設計拡張状態=Design Extension Conditions)で、安全機器が働くかをちゃんと確認し改善していれば、できた。非常用発電機の設置場所とか、1号機の非常用復水器の弁が緊急時に閉まる設計であったとか、災害前に見直していればよかった。それができなかったのは、設計時の想定を超える事故を考えるとなると、設計基準事故(Design Basis Accident)をもとに出した設置許可の取り消しにつながる議論が起きかねない。そこを心配してきたのだろう」

「防げた」というからには、事故時の対策が不十分であることを事前に想定していたわけだ。
「そこを心配してきたのだろう」って、誰が心配したのか? 
おそらく東電、経産省、原子力ムラあたりのことだろうが、そこに気を配るよりも、自己の原子力安全委員長という職責に真に忠実であれば、「防げた」という断言しているわけだから、それを実行していれば、防げた可能性があるのだ。
また、首都圏住民の避難も検討された「最悪のシナリオ」とよばれる「高圧溶融物放出」を斑目も想定していたという。
テレビで官房長官が「ただちに危険ではない」と発言したその裏では、最悪のシナリオが官邸で議論されており、そのことを当時の原子力安全委員長も認めたのである。
ところで、斑目の肩書が「東京大学名誉教授」とあることにちょっと驚いた。
ほう、「名誉教授」かい。
東大は司直が真っ当な仕事をすれば、とっくにお縄になっていたであろう御仁に「名誉」を冠するのである。
もしかして「不」を脱字しているのかな。
そう「不名誉教授」と……。
(引用参考資料『日本経済新聞』2014年1月10日「斑目氏、3年目の証言「あり得た、フクシマ最悪の筋書き」編集委員 滝順一」
 


 


 

 

 

2014年1月10日金曜日

「遮水壁、やめてくださいよ。株主総会があるんですから」東電企画部幹部の発言

この発言に東京電力の企業体質というか、企業メンタリティというものが赤裸々に露呈している。

 
【引用開始】

……東電の主流部門である企画部のエリートが、馬淵の秘書官にこう苦情を言った。

「遮水壁、やめてくださいよ。株主総会があるんですから」

 6月28日に株主総会が予定されていた。プラント屋と土木屋の対立に加えて、経営中枢が介入してきた。

 経営陣は「遮水壁の費用を計上したら、他の廃炉対策の費用も計上しないといけなくなる」との不安を抱いた。1千億円の債務認識がアリの一穴になることを恐れたのだ。
 
(『朝日新聞』2014年1月10日朝刊、プロメテウスの罠「汚染水止めろ8 債務超過は避けよ」)

【引用終了】


以上は、2011年6月半ばのことである。

「馬淵」とは当時、首相補佐官だった民主党の馬淵澄夫だ。

馬淵は山から流れ込む地下水をブロックする地下遮水壁の必要性をはやくから認識し、その建設をいそいだ。

ところが、東電は株主総会を乗り切るために遮水壁の費用計上を渋ったのだ。

そして、ご覧のとおり、遮水壁は造られず、汚染水はじゃぶじゃぶと海へ流出しつづけている。

そう、いま、このときも。

株主総会を乗り切るために遮水壁を造らないということは、自分たちの会社をまもるために、生命の海に10万年は消えない猛毒を垂れ流すことを選んだ、ということである。

これはつまり、東電幹部は、自己利益と全地球の生命存続を天秤にかけ、前者を選択したわけだ。

これはけっしておおげさではなく、科学的事実に基づいている。

「遮水壁」と「株主総会」。

これを並列に置くことに、筆者は激しい違和感をおぼえるが、東電はこの両者を並列にして株主総会を優先したのだ。

このようなメンタリティを幹部が有する会社だから原発事故対策がおろそかになり、史上最悪の原発事故をまねいたのだ。

そして、あれほどの事故を起こしながらも、まだ東電は自己利益を優先して柏崎刈羽原発の再稼働をたくらんでいる。

なんと、恐ろしい企業、いや人間集団なのだろう……。

2014年1月7日火曜日

日本は世界を破滅に追いやる原発ではなく、人類を救済する和食を広めたい


ぼくが天皇家の食卓に興味をもったのは、もう20年ほどまえにあった講演会がきっかけです。
 
講師はマクロビオティックの大家とされる久司道夫氏。
 
そのとき醤油の話となり、天皇家で使われている醤油は、ぼくたちがスーパーで買うものとは、その材料や製法がちがうものだと聴かされ、ぼくはちょっとした衝撃を受けたのです。
 
その話を集約すると、ぼくたちが日ごろ使っているのはまがいもので、天皇家の醤油こそ伝統的製法に則ったほんまものであり、それは健康にもすぐれているということでした。
 
ぼくはそれまで、醤油にたいして、何の思い入れも知識もありませんでした。
 
でも、この講演を聴くや、醤油だけではなく、伝統製法でつくられた食材や調味料にも興味をいだき、またそれを食卓で実際に使用している天皇家の食卓というものにも関心を寄せたのです。
 
そして「天皇家の食卓」と題した企画書を、当時まだ設立ほどないDHC出版に持ち込み、これがあっというまに通り、1997年に発刊となったのです(その後、2000年に角川ソフィア文庫で出版)。
 
執筆に入り、すぐに天皇家の醤油を調べてみると、どうやらキッコーマン製です。キッコーマンなら、スーパーでふつうに売っています。なんだ、キッコーマンかい、とあなどってはいけません。
 
天皇家の食卓にのぼるのは、伝統的製法の特別醸造だったのです。
 
ちなみに、キッコーマンは伝統製法の「御用蔵醤油」(これが天皇家で使用されているかどうか定かではありませんが)を一部スーパーでも販売しています。
 
わが家でも、ほんまものの醤油の風味のうまさに味をしめ、この本の執筆開始と同時に、全国各地の醤油醸造元の伝統製法を頂いています。
 
こんなほんものの醤油をつくる醸造元は、現代の日本にもまだまだ数多くあります。ぜひ一度お試しあれ。
 
醤油は「和」の大傑作です。
 
きっと、その芳醇なひとしずくに日本の食卓、そう「和」の食卓の精髄を知ることでしょう。

 昨年12月、ユネスコが日本の伝統的な食である「和食」を無形文化遺産に登録しました。
 
ぼくは『天皇家の食卓』を執筆するにあたり、「和」というものに出会わざるを得ませんでした。
 
いみじくも、日本最初の成文法とされる十七条憲法のはじまりは「和を以って貴しとなす」です。
 
では日本人的心性の特徴とされる「和」はなんでもって涵養されたのか。
 
それは日本独自の食卓にあるのではないか、と天皇家の食卓を執筆する過程で確信するに至りました。
 
そう「和」の食たる「和食」です。

また日本初とされるヤマト統一政権ですが、ヤマトは大和と充てられるように、ここでも「和」が用いられています。
 
政治的にも「和」が大きな意味を有しているのです。
 
この「和」は「禾」と「口」からできていますが、「禾」は稲を意味します。
 
日本という国家は稲作水田を灌漑することで誕生した国であり、この過程で日本人独特の心性も育まれたのです。
 
和はおだやか、仲良くすること、調和がとれているという意味で、おおよその日本人に当てはまるのですが、また度が過ぎた同調圧力や協調性を求めるということも当てはまります。
 
灌漑工事と水田の維持管理は、どうしても強力な和の強制が必要だったのです。

ところで、朝食が「トーストとハムエッグ」という日本人はかなり多いはずです。
 
このイギリス伝統のコンチネンタル・ブレック・ファストを日本で最初に始めたのは誰だかご存じでしょうか? 
 
なんと天皇家なんです。
 
おそらく日本の朝食の定番メニューを「トーストとハムエッグ」としたのは裕仁(昭和)天皇としてまちがいありません。
 
この「トーストとハムエッグ」のみならず、日本人の食卓の源流にはいつも天皇家の食卓がありました。

和食は「縄文の食卓」「卑弥呼の食卓」「平安朝の食卓」そして「禅寺の食卓」で、その母型がかたちづくられますが、和食を食するということは実は仏教を食するということでもあります。
 
おっと、ついつい書きすぎました。
 
まあ、ユネスコが無形文化遺産にするまでもなく、和食は後世に継承されなくてはなりません。
 
伝統的和食は生活習慣病をふせぐとともに、人口増加による食糧危機にも対応できるものです。
 
日本は世界を破滅に追いやる原発ではなく、世界を救済する和食こそ広めたいものです。
 
それがなぜ、そうなのか?
 
ぜひ、『天皇家の食卓』(電子出版復刻版)をお読みいただきたいものです。


*なお、この本から筆名を秋場龍一から秋葉龍一に改名しました。

 

2014年1月1日水曜日

テレビ、視てますか?

新年明けましておめでとうございます、って素直に言えない気持ちが、ここ数年つづいている。

そう、あの原発事故以来。

大みそかの昨夜、ボクシングの世界タイトル戦が3つあって、それを観たくて数時間テレビをつけっぱなしにしていた。

以前なら、テレビを2時間、3時間と連続で視ることはいくらでもあったけど、あの事故以来、録画した番組以外、行き当たりばったりでテレビを視ることがなくなった。

この傾向はぼくだけではなく、ぼくの周囲でも、またネットやツイートなんかでも、この種のことをよく耳に眼にする。

みんな、テレビって、視ていないんだ。

で、久しぶりにテレビをつけっぱなしにして、リモコンであっちこっちと切り替えるのだが、NHKの紅白から民放のバラエティまで、同じチャンネルを10秒も視つづけていられない。

すぐに他局へ切り替える。

音楽も好きだし、お笑いも嫌いじゃない。

だけど、10秒以上、聴くに堪える、視るに堪える音楽もお笑いもやっていない。

じゃあ、この日本に、聴くに視るに堪える音楽もお笑いもないかといえば、けっしてそうではない。

ただ、テレビがそういう音楽もお笑いも放送していないだけなのだ。

ところで、福島原発事故処理は収束どころか、ほとんど何一つとして解決されていない。

被曝による放射線障害の増加や漏れ続ける汚染水など、むしろその被害は拡大している。

そして大みそかのテレビでは、そんな危機的状況など何もないように、音楽が、お笑いが、垂れ流されている。

いまある危機的状況に煙幕を張るように。

まるでこんなネガティブな使命感で、テレビ局が存在しているように。

だから視るに堪えない番組しか作れないのかな。

ところで、ぼくが生きているあいだに、新年を迎えた日、こころから「おめでとう」って言える日が来るのだろうか……。