2012年1月23日月曜日

太田光クンに告ぐ! 「原発問題は爆笑問題よりシリアスなのだ」

【ただちに危険だ! 原発通信】№37

2012.3.11「100万人デモ」でただちに全原発廃炉だ!

「(原発の影響で)もう日本に住めるところはないなどと、がなり立てていた表現者が許せなかった。なんとか現代文明を肯定的に書きたかった」(「日刊スポーツ」122日)爆笑問題の太田光が小説『文明の子』の発売会見でこんな発言をしたらしい。

まあ、その表現者を許せないのも、現代文明を肯定したいのも、もちろん太田クンの自由である。だけど、もうちょっとで、太田クンがそう言えない事態になっていたかもしれないのだ。しかも、それは終わったことではなく、現在も進行中なのだ。そのことを、太田クンとここで確認したい。


菅政権の「最悪のシナリオ」の存在は知っているよね。昨年3月のフクイチ事故で作業員すべてが現場から退避して原子炉が爆発し、大量の放射性物質が1年間、周囲250キロから300キロにわたって放出した場合、首都圏3千万人を含む、東日本の住民を避難させることを想定したものだ。

これはかなり現実味を帯びており、現に東電の当時の社長である清水は、政府に何度も作業員を第一原発から第二原発へ退避させたいという電話をしている。当時の事態はそこまで切迫していた。

もし、これほどの住民を西日本に避難させる事態になれば、日本は国家としての機能を喪失する。まちがいなく無政府状態となる。だいいち、数千万の住民を短期間に移動させることなど不可能だ。そう、あともうちょっとで、日本は終わっていたのだ。

そうなれば、太田クンは『文明の子』なる小説を書いている場合ではなかったし、それを発行する出版社も印刷所も機能していなかっただろう。命からがら、でも運よく避難した太田クンは、避難所の薄暗い体育館の片隅で、『文明の子』ではなく、『原発の子』とか『原始の子』、あるいは『反文明の子』という小説を構想していたかもしれない。

しかも、フクイチ事故はまだ続いているのだ。もちろん収束なんてしてやしない。ことし元日の震度4の地震でフクイチ4号機の燃料プールから水がなくなりかけた。もし、あのまま燃料プールに水が供給されないと、「超最悪のシナリオ」が必要となることは太田クンにも理解できるはずだ。しかもたった震度4だよ。この程度やそれ以上の地震はこれから短期間にいくらでも起こるだろう。

さらに、いま多くの地震研究者が、日本中いたるところに甚大な被害をあたえるM7~M9クラスの地震の発生が近いことを予知している。その地震で揺れる土地の上には、日本全国くまなく原発や原子力施設がある。しかも、ほとんどの原発の耐震設計は、想定される震度に耐えられない。いや、「想定」ではなく、「事実」として福島第一原発が耐えられないことを実証してみせたよね。おまけにどの原発も大津波がやってくる海岸線に建っている。

そしてさらに、いま緊急対策を迫られているのが「原子炉圧力容器の照射脆化」だ。原子炉の老朽化で圧力容器が中性子線によって劣化(脆化)して、容器がパリンと割れてしまう危険性だ。そうなれば原子炉大爆発でフクイチやチェルノブイリをはるかに超える放射能がばらまかれてしまう。この危険性を指摘するのは金属材料学の権威、東京大学名誉教授の井野博満氏である。

その老朽化した原子炉をもつ原発として、真っ先に挙げられるが、佐賀の玄海原発1号機(あのやらせの九州電力)だ。九電はこの「脆化」が想定をオーバーしていることを承知しているが、この事実を九電は保安院に伝えず、保安院も電力会社に問い合わせる義務がないという理由で知らなかった、と述べるしまつ。この「脆化」は玄海原発だけではなく、福井の美浜12号機、大飯2号機、高浜1号機(以上関西電力)、敦賀1号機(日本原子力発電)も同様だ。

なお、太田クン。ぼくはきみの芸風が嫌いじゃない。どちらかというと、好みだ。だけど、あの会見での発言はいただけない。原発問題は爆笑問題よりシリアスなのだ。原発問題は「場」と「時」の喪失を意味する。そう人間が何百年、何千年、何万年と住めなくなるのだから。住めなくなると、そこで一切合財の人間活動はできない。もちろん「文明活動」もそうだし、お笑いの「文化活動」だってそうだ。あたりまえだ。原発問題はなによりシリアスで、なによりラジカルで、そしてなによりプライオリティが高いのだ。


4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ごく短い太田さんの発言から、なにをどう推測しようとそれこそ自由ですが、壮大にすれ違ってますよ。トレンディドラマの恋人同士ぐらいすれ違っていて、もはや太田さんの発言とこのブログの内容は、なんの関係もないコンテンツと言ってもいいぐらい。

短文時代、少なすぎるデータから膨大な結論を出すのはやめたほうがいいんじゃないかと思います。

いとまがないので説明しませんが、まず太田さんが言う「表現者」の中に、マスコミや政治家や東京電力、そしておそらく「ノンフィクション」作家も含まれてないと思いますので、どうぞ、太田さんの発言とは関係なく原発について発信してください。

匿名 さんのコメント...

太田さんは事故前から反原発活動してる人にではなく、事故後に掌を返して戦犯を祭りたてて叩いて自分の気を晴らしてる人に対してだと思います。

許せない表現者っていうのは、最近ヒットを飛ばした某ミュージシャンが事故直後にアップロードしたギャグのような替え歌に対してだと思いますけど。

mephedrone さんのコメント...

あなたは本当に言葉の方法がある。情報を提供し、私はそれに関連することができるの素晴らしいスタイル。私にとってこのような素晴らしい情報。このために感謝。
mephedrone

匿名 さんのコメント...

こちらで爆笑問題の太田光さんへの発言があった時から静かに共感して来ました。
太田さんも批判されているのを知っている様子で「原発推進のように思われているようだけど、止めるなら止めたらいいと思ってる」と最近発言しています。
僕には太田さんは「消極的な脱原発」、つまりは、様子見の「推進」に限りなく近いのだろうと感じられて仕方ないのですが。

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産経ニュース【本の話をしよう】で太田光の「文明の子」が取り上げられているようです。本日このことがtwitterで矢鱈拡散されています。
このタイミング、まんまとフジ産経グループの思惑の輪の中で踊ってしまっています……テレビで生きる芸人の限界にも映ります。
先の大戦の「戦争責任」だとか「憲法9条」だとか青筋立てて語っていた太田はいったい何だったのでしょう?

「文明をポジティブにとらえる」
という視点が常に太田光という男のテーマ、前提、となるあまりに「原発、放射能も善」となってしまっているのでしょう。
太田はよく「すべてを疑ってかかれ」と言います。もしそうであるなら、
「ポジティブにこの世界をとらえ」ようとするその思考の始まりが、既に、「すべてを疑ってかかっていない態度」となっています。それは、何の疑いも持たない安易な楽観主義とまったく違いなどなく、帰結する答えも、それを導く道筋も始まりから出来上がってしまっているにほぼ等しいわけです。
「もう次には絶対、過酷事故は起こらない」とポジティヴに決めつけて、「再稼働ありき」で事を進める、のと同じ思考回路です。

「どう原発、放射能を肯定しようか」
「この現状でのマスコミの中で、テレビに出る自分をどう正当化しようか」
という答えが太田光には最初からあって、
さも熟考しているかのような論理の枝葉は総て後づけと伺えます。
現在、太田光は自己の、この思考の過ちに気づかぬまま発言を繰り返すため、なお一層質が悪くなりつつあります。ただし、こうした自己矛盾に気づくような者であれば、文学好きを公言し、多くの文学を評論していながら「マボロシの鳥」「文明の子」などでみせた、どう贔屓目にみても高校生が遊びで書いた程度の、正直下手でしかない書き物を本で出すなどというのは「恥ずかしくてしょうがない」と出版を辞退している事でしょう。

「こいつはまともそうだ」と思わせてくれていた太田という人物だっただけに3.11以後の太田光は「残念な人」となってしまいました。
3.11直後、「日曜サンデー」で立花隆と「放射能の無力化」に夢を馳せるている御様子の太田とか、つい先日は「金環日蝕を見て、太陽も原発も同じ核エネルギーだ」などと人間讃歌に酔いしれていた太田とか、昨日は「原発を続けても地獄、止めても地獄」発言などなど最早聞いてはいられません。ひどいものです。呆れます。

そして、
いまなお放射能のことを語るとき、その単位を太田光は「デシベル デシベル」と言い続けています。「シーベルト」「ベクレル」という言葉も頭に入っていないといういい加減さなのです。きっと、いまの太田光にとって「原発」「放射能」への問題意識など、ほんとうのところではその程度のものなのだろうと思えてなりません。

太田の頭を叩いてみれば、
「ぼくらの文明はきっと放射能を無力化するよ。福島は悲惨だったけれど、それも人類の辿る道。未来はいつも面白い!」
と声がしてくるようです。

どんな小さな痛みをも汲み取り、分かち合いたい、というのが太田光の「第二次大戦」「憲法第9条」を考える根底にあった思考ではなかったのか?