舛添要一都知事が先月30日、2020年東京五輪・パラリンピックのトライアスロン会場をお台場海浜公園(港区)から変更する可能性を明らかにした。
その理由が「東京湾は大腸菌がいっぱいで汚い」というもの。
この都知事の発言に、はげしい違和感をおぼえた。
だって、東京湾に大腸菌がいっぱいなんて、五輪会場を選定する前からわかっていたことなんだもの。
お台場海浜公園が会場ではまずい、という理由に、あまりにも説得力がない。
で、けさのことだ。
どうしたことか、めざめとともに、トライアスロン会場の変更の理由が、ぼくの脳裏に降りて来たのだ。
それは「放射能汚染がひどくて、とてもトライアスロンなんてできない」というものだった。
そうか!
これなら、トライアスロン会場を変更したい理由が腑に落ちる。
東京湾の放射能汚染が、海外で問題になることを回避したいための会場変更発言だったのではないか。
広い関東平野に降り積もった放射性物質が、いまも河川をつうじて、どんどん東京湾に流れこんでいる。
1年ほど前だったか、江戸川のアナゴが高濃度に汚染されていたことが発覚してニュースになったことも記憶にある。
さてさて、ぼくの夢のお告げならぬ、めざめのお告げの信憑性はどうだろう。
ねえ、舛添さん。
2014年8月4日月曜日
2014年4月2日水曜日
発熱。2日後、原因不明の歩行不能状態に。6日連続の点滴で……。
先々週土曜に発熱。夕方急に悪寒がして、8度ほどまで体温計が上がる。
その2日後の先週月曜のこれも夕方、右脚の膝裏が伸びないなと感じた3時間後に脚が伸ばせなくなり歩けなくなった。あれよあれよの、
歩行不能。右膝がすこし熱があり、腫れている。
翌日、総合病院の整形外科へ。
血液検査で炎症反応を示すCRPが6以上(ネット検索すると中程度以上の炎症、15で重体とあり)、すぐに抗生物質の点滴を受け、抗炎症剤や痛み止め、胃薬などが処方される。
生まれて初めて車椅子と松葉づえを使った。病院常備の車椅子はありがたかったな。
病院帰りのタクシーを降りて玄関までは松葉づえ。階段や段差が何段かあって、ちょっとした高さも松葉づえでのぼるのに苦労するし、転ぶのがこわい。
看護師さんから「転ぶ人がいるから気をつけてね」と聞かされていたけど、そのことばの重みをひしひしと感じる。いやあ、なってはじめて実感するバリアフリーの必要性だ。
でも、この松葉づえ、自宅内でトイレに行くときなどに重宝する。
点滴を受けて3時間後ぐらいから、伸ばせなかった脚がいくらか伸びるようになり、松葉づえがなくても歩けるようになった。点滴の効果てきめん。
どちらかというと、西洋近代医学には懐疑的だったのだが、この手の疾患、それに救命にはつよい。
これ、たとえば漢方だと、どういうようなメソッドがあるんだろうか。ぼくは漢方が好きなんだけど、今回はできたばかりの大きな総合病院を選んだことが正解だった。
3日連続で点滴を受けて血液検査でCRPが5.33に。まだ数値が高いということで、さらに3日連続で点滴を続行。そして昨日の検査で1.35に。医師は点滴と薬をやめて様子をみるという方針。
この間、ずっと微熱があったが、きょうはずっと6.8度。右脚はまだ完全に伸ばせないが、おおよそ90%は治った気がする。
この間、大切な仕事をひとつキャンセルして、数名の方にご迷惑をお掛けしてしまった。でも、辛かったけど、貴重な体験をした。きついけど、病や痛みはある種のメッセージだと思っているのだ。
ことしになって、急に仕事にめざめ、仕事に励みだしたのはいいけど、病や症状がつぎつぎとやってくる。なんで、忙しくなったときにかぎって病気になっちゃうのか、ちょっと恨みたくもなるけど、まあ人生、そんなものだとも思う。
久しぶりにこのブログを書いた。仕事もたまっている。さあ、いまから某出版社へ行かなくちゃ。
2014年3月20日木曜日
ミスをしない人間はいない。であれば、事故のない原発は存在しない。
1976年2月18日。
米議会原子力合同委員会にGEの原子力技術者デール・ブラインデンボーら3人が出席したのは、福島第一原発や敦賀原発など、日本の原発の「問題提起」のためである。
問題提起とは、有り体にいえば「内部告発」だ。
言うまでもなく、内部告発はそれなりの勇気を伴う行為である。
この告発者たちは、わが身にふりかかるかもしれない負担や危険性をかえりみず、つぎのような具体的な問題を挙げた。
⑤以降は政治的な問題である。
米議会原子力合同委員会にGEの原子力技術者デール・ブラインデンボーら3人が出席したのは、福島第一原発や敦賀原発など、日本の原発の「問題提起」のためである。
問題提起とは、有り体にいえば「内部告発」だ。
言うまでもなく、内部告発はそれなりの勇気を伴う行為である。
この告発者たちは、わが身にふりかかるかもしれない負担や危険性をかえりみず、つぎのような具体的な問題を挙げた。
①福島第一原発1~5号機に使われているマーク1型格納容器の弱点
②配線貫通部の樹脂の弱さ
③機器の多様性の欠如
④共通原因故障の恐れ
⑤政府の規制の不十分さ
⑥平和目的の原発と核兵器生産の技術の密接なつながり
⑦核拡散の恐れ
以上の①から④は技術的な問題である。
これらの「問題」は、1976年で解決したのではなく、2011年3月11日までずっと未解決だったのではないか。
さらに、すくなくとも、たとえば敦賀原発などでは、引き続きこの「問題」が未解決のままなのではないか。
今夏にも鹿児島の川内原発を再稼働させるという動きがあるが、果たして原子力規制委員会は原発の全施設にあるそれぞれの検証ポイントに、専門的知見のある第3者的な立場の技術者を伴って検証作業をしたのであろうか。
米議会で告発者が述べたように、日本の原子力業界は「隠蔽体質」なのだから、このような検証作業が欠かせないはずだ。
そして仮に、日本の原発が「世界一安全」であろうとも、第2、第3のフクシマが起きないという保証は絶対にできない。
「世界一安全」は、あくまで「想定」であり、あるいは人をあざむく「神話」であるかもしれないのだから。
仮に本当に「世界一安全」だったとしても、それは他の原発との比較にすぎず、それが絶対に事故を起こさないという保証はない。
人間は「絶対に安全」であるという技術は作りだせないからだ。
すくなくとも現在まで、そういう技術はなかった。
なぜなら、人はミスをかならずするものであるからだ。
自動車を例に挙げよう。
自動車が売り出されるまで、徹底的な技術検証がなされる。
しかし、トヨタであろうとホンダであろうと、あるいは外国産であろうと、リコールされる車は後を絶たない。
自動車は数多くのチェックポイントがあるが、それでも原発と比較すると圧倒的にコンパクトなサイズであり、また通常は原発とちがって、放射線の心配の要らない安全な環境で検証できる。
また技術的な歴史も原発より長い。
それでも、「想定外」の事態が発生して問題が起きる。
そして「リコール」という文字を新聞紙面で見ることになる。
あるいは自動車ではなく、もっとごく単純な検証作業である本づくりにおいても、しかりである。
本の制作の検証作業の多くは文章チェックに費やされる。
通常、本に記載されてある文章は、筆者、担当編集者、プロの校正者がチェックする。
その文章に問題があるとすれば、校正という検証作業をおこなう自分の目の前、ほんの数十センチの距離に存在する。
つまり問題が内在しているかもしれないゲラという対象は、検証者のすぐ目の前にあるのだ。
そして、初校、再校と、すくなくとも4度、5度は、その文章の書き手と編集者、プロの校正者など、複数の目が通る。
延べで、15回以上は全文を検証するだろうか。
だが、それでもミスは起きる。
しかも、単純な誤字脱字のまちがいも多い。
本を読んでいて、そんなミスを見つけたことがある人も多いことだろう。
そうなのだ。
人間はミスをする。失敗をするものだ。
すぐ目の前に問題があるのに、それでもごく単純なミスをするのだ。
それが原子力発電という巨大で、専門分野の異なる技術検証が必要な複雑なプラントなら、その検証作業の専門性や困難性は、本の文章校正の比ではないはずである。
であれば、とうぜんミスをする確率も多くなるだろう。
で、ミス、失敗したときのことである。
本なら、最悪、書店回収というところだろう。
まあ、書いた内容に問題があって、たとえば名誉棄損で裁判沙汰ということもないわけではない。
でも、最悪この程度である。
ところが、原発事故はそうはいかない。
たった一度のミスで、この地球を破壊させる可能性さえ秘めているのだから。
原発のミスは取り返しがつかないのだ。
しかも、全地球史的にである。
また、このミスは、あくまで「善意」におけるミスである。
ここには「悪意」や「怠慢」、「隠蔽」それに「自己利益優先」などが介在することを考慮していないことも付け加えよう。
ところが、史上最悪の事故を起こした東京電力は、「怠慢」と「隠蔽」と「自己利益優先」が介在していたことが明白になっているのだが……。
⑥は要するに「原発は核兵器製造工場」ということだ。
彼ら原発の現場で働いた告発者たちは、「原発と核兵器生産の技術の密接なつながり」を、実際に自分たちの眼で目撃したのである。
この日本という資本主義社会にあって、それが最優先とされる経済性においてすら劣る原発を何としても稼働させたい、その本音はここにあるのではないか。
この「本音」は、史上最悪の「悪意」だろう。
事実、自民党幹事長の石破茂は「核武装のために原発は必要である」とテレビカメラの前などで明言している。
もっとも、そもそも原発などという愚かなプラントで発電をしようとしたことじたいが、人間にとって取り返しのつかないミスだろう。
で、石破的なる人間を生み出したのは、いったい誰のミスなんだろう。
(参考資料、引用『朝日新聞』「プロメテウスの罠・内部告発者17」2014年3月20日朝刊)
2014年3月9日日曜日
ドイツのテレビ・ドキュメンタリー「フクシマの嘘」が描いた、原子力ムラに牛耳られるわが美しきニッポン
ドイツZDF 「フクシマの嘘 其の参」
http://youtu.be/m2u-9eR-hC8
30分のテレビ・ドキュメンタリーである。
この短い尺で、原発爆発以後のフクシマの実態、そして原子力ムラに思うがままコントロールされる日本という国家と国民の姿を余すことなく描写している。
そう「コントロール」されているのは汚染水ではなく、ぼくたち日本人のマインドなんだ。
安倍晋三とそのエピゴーネン、原子力ムラの住人、そして東電にとって、汚染水をコントロールするより、日本人をコントロールするほうがたやすいとふんでいるのだ。
ぼくたちは、彼らから徹底的になめられている、というわけだ。
福島の原発事故以降、この最大の惨事、いや人類史上最悪の犯罪にたいして、この国、日本では数多くのドキュメンタリーや報道がなされてきた。
だが残念ながら、このドイツのテレビ映像のような、この犯罪の核心というか真実へ肉薄したものをぼくはまだ見ていない。
原子力ムラというカネのためなら、人が死のうが苦しもうが、いやこの日本、この地球が滅ぼうとも意に介さない者どもに、ぼくたちはこのまま愚弄され、蹂躙されつづけるのだろうか……。
この映像を見ながら、そんな怒りと絶望が、ぼくの胸をいっぱいにした。
怒りを歓びに、絶望を希望にスイッチするにはどうすればいいのか。
それにはまず、怒りを怒りとして、絶望を絶望として、しっかりとわが全身に叩き込むことだろう。
そこからしか、真の歓びや希望は見えては来ないだろう。
ぼくたちはきっと、怒りのまま、絶望のまま、この世を去りたくはないのだから。
2014年2月27日木曜日
大雪が降った翌朝、積もった雪を見て、原発が爆発して降り積もった放射性物質を連想した
原発が爆発して、ここ柏市の住宅街にも放射性物質が空から降ってきた。
でもみんな、いつものように外を歩いていた。
それはふだんとなにも変わらない光景だった。
だけど、これが雪のように降り積もるように見えたら、あんなふうに外を歩いていただろうか。
おそらく、みんな「正しく恐がった」はずだ。
そう、あの当時、大雪のごとく放射能が降り積もっていたんだよ。
……大雪が降って、道路に積った雪を見て、こんな連想をしたことを、けさ思いだした。
あの当時、ヨウ素やセシウムといった放射性物質が、しんしんと雪のごとく降り注いでいたんだよな。
雪はいずれ溶けてなくなるけど、放射性物質はそうはいかない。
身体から排出されず残った放射性物質が、あらゆる器官に蓄積して、悪魔の毒を放射しつづけるのだから。
でもみんな、いつものように外を歩いていた。
それはふだんとなにも変わらない光景だった。
だけど、これが雪のように降り積もるように見えたら、あんなふうに外を歩いていただろうか。
おそらく、みんな「正しく恐がった」はずだ。
そう、あの当時、大雪のごとく放射能が降り積もっていたんだよ。
……大雪が降って、道路に積った雪を見て、こんな連想をしたことを、けさ思いだした。
あの当時、ヨウ素やセシウムといった放射性物質が、しんしんと雪のごとく降り注いでいたんだよな。
雪はいずれ溶けてなくなるけど、放射性物質はそうはいかない。
身体から排出されず残った放射性物質が、あらゆる器官に蓄積して、悪魔の毒を放射しつづけるのだから。
2014年2月26日水曜日
放射能汚染で、ぼくたちは手賀沼の豊かな漁場をうしなった
千葉県の北西部に手賀沼という大きな「沼」がある。
その周囲は38キロあり、山手線の34.5キロと比較すると、その大きさが想像できるだろう。
ここはかつて風光明媚な景勝地で、この沼を見下ろす我孫子の高台には志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、中勘助、滝井孝作など、白樺派の文人たちが住んでいた。
現在では夏になると柏市と我孫子市が共催する花火大会があり、沼の周囲には大勢の人たちがつどう。
ぼくの好きな我孫子図書館はこの沼のすぐ畔にあり、そこには犬も入れる大きな公園があって、愛犬が元気なときはよく散歩に連れて来た。
また、この沼はコイ、フナ、ウナギ、エビ、そして名物の佃煮となるモツゴなどが獲れる豊かな漁場だった。
しかし、この沼が人の食用として獲れる魚の漁場だったのは、2011年3月半ばまでだ。
これ以降、この沼で獲れた魚を、ぼくたちはいっさい食することができなくなり、この沼で生計を立てていた漁師たちは、漁に出ることができなくなった。
その理由は、もちろん東電福島第一原発事故による放射能汚染のためだ。
手賀沼が「日本一」で有名だったことがある。
それは「日本一汚い沼」という、あまり名誉な一番ではないが。
大規模な浄化が進み、10年以上前に「日本一」は返上した。
日本一汚い沼で獲れた魚でも食用にすることはできたのだけど、一度の原発事故で、もうこの沼で獲れた魚をぼくたちは食べることができない。
放射能汚染というものが、いかにとてつもなく激しい「汚染」なのかが実感できる。
この沼に漁に出られ、獲れた魚を食べることができるのは、いったいいつの日なんだろう。
数十年先か数百年先、それとも……。
ああ、ぼくたちの世代は、なんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。
先祖にも、そして未来に生きる人たちにも……。
きのう25日、安倍政権は原発の再稼働を進めるエネルギー基本計画の政府案を決定した。
その周囲は38キロあり、山手線の34.5キロと比較すると、その大きさが想像できるだろう。
ここはかつて風光明媚な景勝地で、この沼を見下ろす我孫子の高台には志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、中勘助、滝井孝作など、白樺派の文人たちが住んでいた。
現在では夏になると柏市と我孫子市が共催する花火大会があり、沼の周囲には大勢の人たちがつどう。
ぼくの好きな我孫子図書館はこの沼のすぐ畔にあり、そこには犬も入れる大きな公園があって、愛犬が元気なときはよく散歩に連れて来た。
また、この沼はコイ、フナ、ウナギ、エビ、そして名物の佃煮となるモツゴなどが獲れる豊かな漁場だった。
しかし、この沼が人の食用として獲れる魚の漁場だったのは、2011年3月半ばまでだ。
これ以降、この沼で獲れた魚を、ぼくたちはいっさい食することができなくなり、この沼で生計を立てていた漁師たちは、漁に出ることができなくなった。
その理由は、もちろん東電福島第一原発事故による放射能汚染のためだ。
手賀沼が「日本一」で有名だったことがある。
それは「日本一汚い沼」という、あまり名誉な一番ではないが。
大規模な浄化が進み、10年以上前に「日本一」は返上した。
日本一汚い沼で獲れた魚でも食用にすることはできたのだけど、一度の原発事故で、もうこの沼で獲れた魚をぼくたちは食べることができない。
放射能汚染というものが、いかにとてつもなく激しい「汚染」なのかが実感できる。
この沼に漁に出られ、獲れた魚を食べることができるのは、いったいいつの日なんだろう。
数十年先か数百年先、それとも……。
ああ、ぼくたちの世代は、なんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。
先祖にも、そして未来に生きる人たちにも……。
きのう25日、安倍政権は原発の再稼働を進めるエネルギー基本計画の政府案を決定した。
(参考資料『朝日新聞』ちば東葛面2014年2月26日朝刊)
2014年2月24日月曜日
けさ、寝床でうつらうつらしているとき、ふと気づいた。ブッダは苦と向き合ったから悟ったのだ、ということを。
うつらうつら夢と目覚めのまどろみのなか、なぜか、この世の「苦」ということに思いが及んでいた。
そしてはたと、「そうか、ブッダは苦しみと真っ向から向きあい、取り組んだから大悟することができたんだ」と気づいたのだ。
仏教はこの世を苦の世界と説く。
ちなみに「四苦八苦」は仏教タームで、人のあらゆる苦しみをあらわしたことばである。
ただ、ここでの「苦」は、「人間として逃れられない必然的な苦しみ」とか「思うようにならないこと」という意味だとされる。
ぼくは以前、この「苦の教え」に疑問というか反発をもっていた。
だって、この世って、苦しみばかりじゃないもん、楽しいことだっていっぱいある、と。
この世は苦の世界って言われると、夢も希望もない、救いのない気持ちになったからだ。
でも、ここ数年で、この「苦」にたいする疑問と反発が、すこしずつゆるみはじめている。
それは苦しみのなかで、人間は自分を見つめることができる、ということを知ったからだ。
たとえば、病気で痛みや不快な症状に悩まされているとき、自分がいま生きているという現実感を嫌というほどおぼえる。
まさに「病を得る」なのだ。
まあ、あまりありがたくはないリアリティだけど、苦しみは生きているという実感を得させてくれる。
とはいうものの、苦しみはいいものだとか、苦しめ、苦しむがいい、というものでもない。
あまりの苦しみにたいしては、そういう苦というものを存在させたこの世をうらむし、もし神がこの世を創出させたのなら、なぜここまでの苦しみを神は与えなければならないのか、とも思う。
そしてそう思ういっぽう、苦はありがたいものなのだ、とも。
そういえば、こんなことばを思い出した。
正確ではないけど、「苦しみのない人生にはさとりもない」というもの。
これ、たしか吉福伸逸さんが述べてたよね……。
そしてはたと、「そうか、ブッダは苦しみと真っ向から向きあい、取り組んだから大悟することができたんだ」と気づいたのだ。
仏教はこの世を苦の世界と説く。
ちなみに「四苦八苦」は仏教タームで、人のあらゆる苦しみをあらわしたことばである。
ただ、ここでの「苦」は、「人間として逃れられない必然的な苦しみ」とか「思うようにならないこと」という意味だとされる。
ぼくは以前、この「苦の教え」に疑問というか反発をもっていた。
だって、この世って、苦しみばかりじゃないもん、楽しいことだっていっぱいある、と。
この世は苦の世界って言われると、夢も希望もない、救いのない気持ちになったからだ。
でも、ここ数年で、この「苦」にたいする疑問と反発が、すこしずつゆるみはじめている。
それは苦しみのなかで、人間は自分を見つめることができる、ということを知ったからだ。
たとえば、病気で痛みや不快な症状に悩まされているとき、自分がいま生きているという現実感を嫌というほどおぼえる。
まさに「病を得る」なのだ。
まあ、あまりありがたくはないリアリティだけど、苦しみは生きているという実感を得させてくれる。
とはいうものの、苦しみはいいものだとか、苦しめ、苦しむがいい、というものでもない。
あまりの苦しみにたいしては、そういう苦というものを存在させたこの世をうらむし、もし神がこの世を創出させたのなら、なぜここまでの苦しみを神は与えなければならないのか、とも思う。
そしてそう思ういっぽう、苦はありがたいものなのだ、とも。
そういえば、こんなことばを思い出した。
正確ではないけど、「苦しみのない人生にはさとりもない」というもの。
これ、たしか吉福伸逸さんが述べてたよね……。
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