2014年2月24日月曜日

けさ、寝床でうつらうつらしているとき、ふと気づいた。ブッダは苦と向き合ったから悟ったのだ、ということを。

うつらうつら夢と目覚めのまどろみのなか、なぜか、この世の「苦」ということに思いが及んでいた。

そしてはたと、「そうか、ブッダは苦しみと真っ向から向きあい、取り組んだから大悟することができたんだ」と気づいたのだ。

仏教はこの世を苦の世界と説く。

ちなみに「四苦八苦」は仏教タームで、人のあらゆる苦しみをあらわしたことばである。

ただ、ここでの「苦」は、「人間として逃れられない必然的な苦しみ」とか「思うようにならないこと」という意味だとされる。

ぼくは以前、この「苦の教え」に疑問というか反発をもっていた。

だって、この世って、苦しみばかりじゃないもん、楽しいことだっていっぱいある、と。

この世は苦の世界って言われると、夢も希望もない、救いのない気持ちになったからだ。

でも、ここ数年で、この「苦」にたいする疑問と反発が、すこしずつゆるみはじめている。

それは苦しみのなかで、人間は自分を見つめることができる、ということを知ったからだ。

たとえば、病気で痛みや不快な症状に悩まされているとき、自分がいま生きているという現実感を嫌というほどおぼえる。

まさに「病を得る」なのだ。

まあ、あまりありがたくはないリアリティだけど、苦しみは生きているという実感を得させてくれる。

とはいうものの、苦しみはいいものだとか、苦しめ、苦しむがいい、というものでもない。

あまりの苦しみにたいしては、そういう苦というものを存在させたこの世をうらむし、もし神がこの世を創出させたのなら、なぜここまでの苦しみを神は与えなければならないのか、とも思う。

そしてそう思ういっぽう、苦はありがたいものなのだ、とも。

そういえば、こんなことばを思い出した。

正確ではないけど、「苦しみのない人生にはさとりもない」というもの。

これ、たしか吉福伸逸さんが述べてたよね……。

 

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