2012年10月18日木曜日

浪江町で4人が自ら命を絶った。だが東電は自殺に原発事故との因果関係を認めようとしない

きのうの朝日新聞の藤原慎一記者が書いた一文に、「悲しみ」と「怒り」と「共感」をいだいた。その記事の後半はこんな内容だ。

 原発事故から1年7カ月が過ぎたが、故郷を追われた人々の悲痛な声が途切れることはない。全住民が避難している浪江町では、私が知り得ただけでも4人が自ら命を絶った。それだけではない。原発事故のために捜索ができず、亡きがらを1カ月近く、野ざらしにせざるを得なかった人たちがいる。そうした遺族の話を聞き、自分の顔が紅潮していくのが分かった。

 東京電力は原発事故と自殺の間に因果関係を認めず、「医師の診断書をみて判断したい」と主張する。「助けてあげられなかった」と自分を責める遺族との落差は大きい。

 政府や東電といった巨大な組織を相手にする福島の人々。記者の基本に反するかもしれないが、被災者の側に立ち続けるつもりだ。(藤原慎一)
(朝日新聞10月17日 朝刊「「基本」反しても被害者側に」

ぼくがいだいた「悲しみ」とは、浪江町ですくなくとも4人もの自殺者が出ていることだ。この自殺した人は原発事故がなければ、自らの命を絶つことはなかっただろう。そして、1カ月近くも野ざらしにされた亡きがら。

それにしても、いったいフクイチ事故で何人が自殺に追いやられたのだろうか。

「怒り」とは、自殺と原発事故の因果関係を認めない東電だ。東電はすこしでも賠償金を減らしたいために認めないのだ。

自分たちが起こした事故のために人が死のうとも、ひたすら自分たちの金銭的利益だけをまもろうとする。

福島原発事故で死人は出ていないと公衆の場で言い放った電力会社の社員がいたが、彼はこの事実を前にどう思うのだろうか。

そして「共感」とは「被災者の側に立ち続ける」という藤原記者の姿勢だ。

この藤原の姿勢をすべての報道関係者が共有するなら、原発はこの国では動かないし、そうなればこの国に放射性物質という名の「死の灰」がばら撒かれることもないだろうし、この国はもうすこしはまともになるだろう。

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