2014年3月20日木曜日

ミスをしない人間はいない。であれば、事故のない原発は存在しない。

1976年2月18日。

米議会原子力合同委員会にGEの原子力技術者デール・ブラインデンボーら3人が出席したのは、福島第一原発や敦賀原発など、日本の原発の「問題提起」のためである。

問題提起とは、有り体にいえば「内部告発」だ。

言うまでもなく、内部告発はそれなりの勇気を伴う行為である。

この告発者たちは、わが身にふりかかるかもしれない負担や危険性をかえりみず、つぎのような具体的な問題を挙げた。

①福島第一原発1~5号機に使われているマーク1型格納容器の弱点

②配線貫通部の樹脂の弱さ

③機器の多様性の欠如

④共通原因故障の恐れ

⑤政府の規制の不十分さ

⑥平和目的の原発と核兵器生産の技術の密接なつながり

⑦核拡散の恐れ

以上の①から④は技術的な問題である。
 
これらの「問題」は、1976年で解決したのではなく、2011年3月11日までずっと未解決だったのではないか。
 
さらに、すくなくとも、たとえば敦賀原発などでは、引き続きこの「問題」が未解決のままなのではないか。
 
今夏にも鹿児島の川内原発を再稼働させるという動きがあるが、果たして原子力規制委員会は原発の全施設にあるそれぞれの検証ポイントに、専門的知見のある第3者的な立場の技術者を伴って検証作業をしたのであろうか。
 
米議会で告発者が述べたように、日本の原子力業界は「隠蔽体質」なのだから、このような検証作業が欠かせないはずだ。
 
そして仮に、日本の原発が「世界一安全」であろうとも、第2、第3のフクシマが起きないという保証は絶対にできない。
 
「世界一安全」は、あくまで「想定」であり、あるいは人をあざむく「神話」であるかもしれないのだから。
 
仮に本当に「世界一安全」だったとしても、それは他の原発との比較にすぎず、それが絶対に事故を起こさないという保証はない。
 
人間は「絶対に安全」であるという技術は作りだせないからだ。
 
すくなくとも現在まで、そういう技術はなかった。
 
なぜなら、人はミスをかならずするものであるからだ。
 
自動車を例に挙げよう。
 
自動車が売り出されるまで、徹底的な技術検証がなされる。
 
しかし、トヨタであろうとホンダであろうと、あるいは外国産であろうと、リコールされる車は後を絶たない。
 
自動車は数多くのチェックポイントがあるが、それでも原発と比較すると圧倒的にコンパクトなサイズであり、また通常は原発とちがって、放射線の心配の要らない安全な環境で検証できる。
 
また技術的な歴史も原発より長い。
 
それでも、「想定外」の事態が発生して問題が起きる。
 
そして「リコール」という文字を新聞紙面で見ることになる。
 
あるいは自動車ではなく、もっとごく単純な検証作業である本づくりにおいても、しかりである。
 
本の制作の検証作業の多くは文章チェックに費やされる。
 
通常、本に記載されてある文章は、筆者、担当編集者、プロの校正者がチェックする。
 
その文章に問題があるとすれば、校正という検証作業をおこなう自分の目の前、ほんの数十センチの距離に存在する。
 
つまり問題が内在しているかもしれないゲラという対象は、検証者のすぐ目の前にあるのだ。
 
そして、初校、再校と、すくなくとも4度、5度は、その文章の書き手と編集者、プロの校正者など、複数の目が通る。
 
延べで、15回以上は全文を検証するだろうか。
 
だが、それでもミスは起きる。
 
しかも、単純な誤字脱字のまちがいも多い。
 
本を読んでいて、そんなミスを見つけたことがある人も多いことだろう。
 
そうなのだ。
 
人間はミスをする。失敗をするものだ。
 
すぐ目の前に問題があるのに、それでもごく単純なミスをするのだ。
 
それが原子力発電という巨大で、専門分野の異なる技術検証が必要な複雑なプラントなら、その検証作業の専門性や困難性は、本の文章校正の比ではないはずである。
 
であれば、とうぜんミスをする確率も多くなるだろう。
 
で、ミス、失敗したときのことである。
 
本なら、最悪、書店回収というところだろう。
 
まあ、書いた内容に問題があって、たとえば名誉棄損で裁判沙汰ということもないわけではない。
 
でも、最悪この程度である。
 
ところが、原発事故はそうはいかない。
 
たった一度のミスで、この地球を破壊させる可能性さえ秘めているのだから。
 
原発のミスは取り返しがつかないのだ。
 
しかも、全地球史的にである。
 
また、このミスは、あくまで「善意」におけるミスである。
 
ここには「悪意」や「怠慢」、「隠蔽」それに「自己利益優先」などが介在することを考慮していないことも付け加えよう。
 
ところが、史上最悪の事故を起こした東京電力は、「怠慢」と「隠蔽」と「自己利益優先」が介在していたことが明白になっているのだが……。

 ⑤以降は政治的な問題である。
 
⑥は要するに「原発は核兵器製造工場」ということだ。
 
彼ら原発の現場で働いた告発者たちは、「原発と核兵器生産の技術の密接なつながり」を、実際に自分たちの眼で目撃したのである。
 
この日本という資本主義社会にあって、それが最優先とされる経済性においてすら劣る原発を何としても稼働させたい、その本音はここにあるのではないか。
 
この「本音」は、史上最悪の「悪意」だろう。
 
事実、自民党幹事長の石破茂は「核武装のために原発は必要である」とテレビカメラの前などで明言している。
 
 
もっとも、そもそも原発などという愚かなプラントで発電をしようとしたことじたいが、人間にとって取り返しのつかないミスだろう。
 
で、石破的なる人間を生み出したのは、いったい誰のミスなんだろう。
 
(参考資料、引用『朝日新聞』「プロメテウスの罠・内部告発者17」2014年3月20日朝刊)

2014年3月9日日曜日

ドイツのテレビ・ドキュメンタリー「フクシマの嘘」が描いた、原子力ムラに牛耳られるわが美しきニッポン


ドイツZDF 「フクシマの嘘 其の参」

http://youtu.be/m2u-9eR-hC8


30分のテレビ・ドキュメンタリーである。

この短い尺で、原発爆発以後のフクシマの実態、そして原子力ムラに思うがままコントロールされる日本という国家と国民の姿を余すことなく描写している。

そう「コントロール」されているのは汚染水ではなく、ぼくたち日本人のマインドなんだ。

安倍晋三とそのエピゴーネン、原子力ムラの住人、そして東電にとって、汚染水をコントロールするより、日本人をコントロールするほうがたやすいとふんでいるのだ。

ぼくたちは、彼らから徹底的になめられている、というわけだ。

福島の原発事故以降、この最大の惨事、いや人類史上最悪の犯罪にたいして、この国、日本では数多くのドキュメンタリーや報道がなされてきた。

だが残念ながら、このドイツのテレビ映像のような、この犯罪の核心というか真実へ肉薄したものをぼくはまだ見ていない。

原子力ムラというカネのためなら、人が死のうが苦しもうが、いやこの日本、この地球が滅ぼうとも意に介さない者どもに、ぼくたちはこのまま愚弄され、蹂躙されつづけるのだろうか……。

この映像を見ながら、そんな怒りと絶望が、ぼくの胸をいっぱいにした。

怒りを歓びに、絶望を希望にスイッチするにはどうすればいいのか。

それにはまず、怒りを怒りとして、絶望を絶望として、しっかりとわが全身に叩き込むことだろう。

そこからしか、真の歓びや希望は見えては来ないだろう。

ぼくたちはきっと、怒りのまま、絶望のまま、この世を去りたくはないのだから。

2014年2月27日木曜日

大雪が降った翌朝、積もった雪を見て、原発が爆発して降り積もった放射性物質を連想した

原発が爆発して、ここ柏市の住宅街にも放射性物質が空から降ってきた。

でもみんな、いつものように外を歩いていた。

それはふだんとなにも変わらない光景だった。

だけど、これが雪のように降り積もるように見えたら、あんなふうに外を歩いていただろうか。

おそらく、みんな「正しく恐がった」はずだ。

そう、あの当時、大雪のごとく放射能が降り積もっていたんだよ。

……大雪が降って、道路に積った雪を見て、こんな連想をしたことを、けさ思いだした。

あの当時、ヨウ素やセシウムといった放射性物質が、しんしんと雪のごとく降り注いでいたんだよな。

雪はいずれ溶けてなくなるけど、放射性物質はそうはいかない。

身体から排出されず残った放射性物質が、あらゆる器官に蓄積して、悪魔の毒を放射しつづけるのだから。

2014年2月26日水曜日

放射能汚染で、ぼくたちは手賀沼の豊かな漁場をうしなった

千葉県の北西部に手賀沼という大きな「沼」がある。

その周囲は38キロあり、山手線の34.5キロと比較すると、その大きさが想像できるだろう。

ここはかつて風光明媚な景勝地で、この沼を見下ろす我孫子の高台には志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、中勘助、滝井孝作など、白樺派の文人たちが住んでいた。

現在では夏になると柏市と我孫子市が共催する花火大会があり、沼の周囲には大勢の人たちがつどう。

ぼくの好きな我孫子図書館はこの沼のすぐ畔にあり、そこには犬も入れる大きな公園があって、愛犬が元気なときはよく散歩に連れて来た。

また、この沼はコイ、フナ、ウナギ、エビ、そして名物の佃煮となるモツゴなどが獲れる豊かな漁場だった。

しかし、この沼が人の食用として獲れる魚の漁場だったのは、2011年3月半ばまでだ。

これ以降、この沼で獲れた魚を、ぼくたちはいっさい食することができなくなり、この沼で生計を立てていた漁師たちは、漁に出ることができなくなった。

その理由は、もちろん東電福島第一原発事故による放射能汚染のためだ。

手賀沼が「日本一」で有名だったことがある。

それは「日本一汚い沼」という、あまり名誉な一番ではないが。

大規模な浄化が進み、10年以上前に「日本一」は返上した。

日本一汚い沼で獲れた魚でも食用にすることはできたのだけど、一度の原発事故で、もうこの沼で獲れた魚をぼくたちは食べることができない。

放射能汚染というものが、いかにとてつもなく激しい「汚染」なのかが実感できる。

この沼に漁に出られ、獲れた魚を食べることができるのは、いったいいつの日なんだろう。

数十年先か数百年先、それとも……。

ああ、ぼくたちの世代は、なんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。

先祖にも、そして未来に生きる人たちにも……。

きのう25日、安倍政権は原発の再稼働を進めるエネルギー基本計画の政府案を決定した。

(参考資料『朝日新聞』ちば東葛面2014年2月26日朝刊)

 

2014年2月24日月曜日

けさ、寝床でうつらうつらしているとき、ふと気づいた。ブッダは苦と向き合ったから悟ったのだ、ということを。

うつらうつら夢と目覚めのまどろみのなか、なぜか、この世の「苦」ということに思いが及んでいた。

そしてはたと、「そうか、ブッダは苦しみと真っ向から向きあい、取り組んだから大悟することができたんだ」と気づいたのだ。

仏教はこの世を苦の世界と説く。

ちなみに「四苦八苦」は仏教タームで、人のあらゆる苦しみをあらわしたことばである。

ただ、ここでの「苦」は、「人間として逃れられない必然的な苦しみ」とか「思うようにならないこと」という意味だとされる。

ぼくは以前、この「苦の教え」に疑問というか反発をもっていた。

だって、この世って、苦しみばかりじゃないもん、楽しいことだっていっぱいある、と。

この世は苦の世界って言われると、夢も希望もない、救いのない気持ちになったからだ。

でも、ここ数年で、この「苦」にたいする疑問と反発が、すこしずつゆるみはじめている。

それは苦しみのなかで、人間は自分を見つめることができる、ということを知ったからだ。

たとえば、病気で痛みや不快な症状に悩まされているとき、自分がいま生きているという現実感を嫌というほどおぼえる。

まさに「病を得る」なのだ。

まあ、あまりありがたくはないリアリティだけど、苦しみは生きているという実感を得させてくれる。

とはいうものの、苦しみはいいものだとか、苦しめ、苦しむがいい、というものでもない。

あまりの苦しみにたいしては、そういう苦というものを存在させたこの世をうらむし、もし神がこの世を創出させたのなら、なぜここまでの苦しみを神は与えなければならないのか、とも思う。

そしてそう思ういっぽう、苦はありがたいものなのだ、とも。

そういえば、こんなことばを思い出した。

正確ではないけど、「苦しみのない人生にはさとりもない」というもの。

これ、たしか吉福伸逸さんが述べてたよね……。

 

2014年2月22日土曜日

「回答の4割が体調変化」子宮頸がんワクチン副作用、6市が独自調査。厚労省は接種の推奨再開をやめ、ただちに接種の中止を!

子宮頸がんワクチンを接種した人にたいして、神奈川県茅ケ崎市・鎌倉市・大和市、愛知県碧南市、熊本県合志市・玉名市の6市が独自に追跡調査を実施したところ、いずれの市においても4割ほどの人が「副作用あり」と回答した。

このブログでも報告したように、厚労省の検討会は強烈な痛みなど副作用について「科学的知見はない」と否定し、その原因を「心身の反応」とした。

だが、これはあきらかにおかしい。

もし副作用が、検討会が言うところの子宮頸がんワクチンの成分に原因がなく、接種するさいの痛みや恐怖、不安がきっかけとする心理要因なら、それは接種成分を問わない「注射恐怖症」ともいうべきことになる。

だが、これまでの「注射の歴史」のなかで、天文学的な回数が実施されたが、これほどの副作用の報告があっただろうか。

これまでの医療注射にたいして、どれだけの心理的要因による副作用が報告されているか、検討会ならびに厚労省に、その調査データの開示を求めたい。

もし、そんな調査はないとするなら、それこそ「心身の反応」とする「科学的知見」はないということになるだろう。

それにしても、4割もの人が体調の変化を感じたというのは、あきらかにこのワクチンの成分そのものに原因があるとしか考えられない。

なぜ、こんな疑惑のワクチンを厚労省は普及させようとするのか。

この問題、なにかイヤな臭いがぷんぷんする。そう感じるのは、ぼくだけだろうか……。

(参考資料『朝日新聞』2月22日夕刊)

2014年2月20日木曜日

秋場から秋葉へ改名しました。きょうから「秋葉龍一のねごと」です。

筆名を「秋場龍一」から「秋葉龍一」に改めることにしました。
はい、「場」を「葉」に変えただけです。

あまり縁起を担ぐとか、オカルト志向でもないのですが、なんか思い切って自分の在り方を変えたいと思い、ことしから秋葉にしようと決意しました。

秋場は愛着がありますから、それを変えるのは、本人にとっては、けっこうな「決意」なんです。

じつは、もうかれこれ15年ほどまえ、ある九州の占い師から、「秋場」はよくないから「秋葉」にしたほうがいいと薦められていました。

でも、秋葉って、15年前はオタクの聖地秋葉原の「アキバ」であり、最近ではAKBの「アキバ」でもあって、どうも乗り気がしなかったわけです(さっそく口の悪い旧友から「AKB龍一」というメールを頂戴しました)。

それとぼくのなかでは秋場の「場」って、カッコいいんですよ。

いまふと思ったのですが、ペンネームとか芸名とか、本名ではなく自分で好き勝手な名前を付けても社会的にゆるされるって、これモノを書く人間とか、芸人、役者、タレント、芸者、ホステス、ホストなど一部の職業だけではないでしょうか。

会社に入って、自分好みの「社員名」など付けられないですから。

自分で好きな筆名を付けて、その名で呼ばれるって、それなりの快感があります。

親から、本人の承諾もなく、勝手につけられた名でもって、生涯呼びつけられるというのは、理不尽といえば理不尽であります。

ちなみに、むかしの武士などは、幼名があって、諱(いみな)になったり、また何度も名が改まったりしています。

さて、秋場で、この間ずっと通してきたわけですが、なんかずっと「秋葉」にしたほうがいいんじゃないか、という気持ちがありました。

で、昨年の暮れ、このままではまずいという、かなり深刻な事態におちいったとき、ワガツマが「秋葉のほうがいいんじゃない」とのたまったのです。

この深刻な事態を乗り切るのは自分を変えるしかなかったのです。

自分を変えなくちゃと真剣に悩んでいるときですから、まあ「渡りに船」です。

あれほど躊躇していた秋葉という舟にあっさり乗ったというところです。

でですよ、秋葉にしたことし、その深刻な事態を約1か月半で回避できたのです(いや、まだ安心はできませんよ。とりあえずはね)。

ことしに入り、あきらかに運勢が変わりました。それは実感できます。もちろんいい方向です。

ただし、2週間ほど前から強力な耳鳴りに悩まされ、耳鼻科で突発性難聴と診断されたり、先週の金曜からは耳鳴りに片頭痛が加わり、その痛みで夜中に目覚めてしまったり、また頻脈性の不整脈で生まれてはじめて救急搬送されてしまったりと、まあそれなりにいろいろあるわけですが。

きっとこの間の、強烈なストレスでしょうね。

人生「生老病死」、いろいろ苦はめぐってくるものです。

ところで、人間って、「決意」というか「覚悟」っていうのかな、それが本心からできたとき、運勢というか、人生の流れというのはまちがいなく変わりますね。

こんなこと、もっとはやく気づくべきなのでしょうが、でも仕方ないです。

というわけで、「AKB龍一」じゃなくて、「秋葉龍一のねごと」ですから、よろしくお願いします。